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企画展「口絵・挿絵でたどる演芸速記本」

国立演芸場 演芸資料展示室で令和5年4月1日~8月20日まで開催された、企画展「口絵・挿絵でたどる演芸速記本」のオンライン展示です。

開催にあたって

演芸速記本の嚆矢となる三遊亭円朝『怪談牡丹燈籠』(明治17 年(1884)初刊)以来、現在に至るまで落語や講談をはじめとする演芸速記本は数多く出版されてきましたが、その多くには口絵・挿絵が添えられています。演芸速記が言文一致体小説のヒントとなるなど、近代の文学と関係が深いことは良く知られていますが、速記本に添えられた口絵・挿絵もまた文芸雑誌等、当時の出版物と密接な関係を持ってきました。演芸速記本の口絵、挿絵を描く画家の多くはまた小説等を中心とした文芸雑誌や単行本の挿絵等を描いており、当時有名だった画家の名前もよく見られます。

当初口絵・挿絵は登場人物の様子や、物語のある場面を画像化して読者に印象付ける役割を担う一方で、現在のグラビアのように本自体に華やかさを添える役割を持っていたようですが、活字の普及や読書環境の変化に伴い、絵の役割も変化していきます。

今回の展示では、国立劇場が所蔵する速記本を中心に、その口絵・挿絵の流れを追いながら、絵と速記本文との関係、またその変遷について見ていきたいと思います。


展示監修:今岡 謙太郎(武蔵野美術大学教授)

【凡例】

・本展監修者(今岡謙太郎氏)が執筆した文章には末尾にイニシャル〈I〉を付けた。その他無印の文章は国立劇場調査資料課職員が執筆した。

・実際の展示の陳列順序と、オンライン展示の順序は一致しない。また、展示で陳列されていても、オンライン展示には掲載していない資料もある。

・口絵、挿絵、表紙の資料名は、画題・書籍名・号数の順に、分かるものについて記載している。

1.速記本前史

口演速記法輸入以前の江戸期においても、寄席演芸の口演を文字化する試みは行われていました。落語に関しては咄本と呼ばれる笑い話を集めた出版物の中に、当時高名な落語家の口演を写そうと試みた例が見いだせます。講談に関しては写本で流通した実録(実録体小説)という、講談の演目と深い関係のある書物の中に、講釈師の口ぶりを彷彿とさせるものがいくつか残っています。刊行本である咄本にはほぼ全て挿絵が備わっており、中には本文と挿絵が同じ版面に入る草双紙形式のものも多く見られます。内容としては本文のワンシーンなどを画像化したものがほとんどですが、口演者の姿を描いたものもいくつか見受けられます。

 また一方、幕末になると落語・講談の有名演目の登場人物を浮世絵師が描き、それに戯作者等が解説を付したシリーズものなども刊行されるようになりました。〈I〉

講談一席読切 伊東潮鯨 尾上梅幸・河原崎国太郎

講談師の得意演目を、同演目を当たり役とする役者の芝居絵として描いた揃物の一図。画面右上、書物をかたどった枠内には登場人物の紹介が記されている。銀光はのちに安達吟光の名で、小説や速記本の口絵も描いた。

俳優落語三十六家撰 ヘラヘラ坊萬橘 中村福助・中村芝翫

周重は豊原国周の門人。当時の人気役者の芝居絵に、その演目や役柄にちなんだ落語家の経歴を記した揃物の一図。萬橘の珍芸「ヘラヘラ踊」について書かれている。

講談一席読切 正流齋南窓 市川左團次

森蘭丸が蘇鉄の大木を照らす場面を、市川左團次の上演に取材して描いたものと思われる。この大木が夜な夜な「妙国寺へ帰ろう」と言うので、奇妙に思い、様子をうかがっている。

コラム〈絵と文の関係性〉

 演芸速記本に限らず、明治期以降の書籍の多くには口絵や挿絵が見られ、読者にとって絵は単なる添え物ではなく文章とともに楽しむ対象だったと読み取れます。この源流は近世の錦絵や絵入り本に見ることができます。江戸時代の戯作文学では、戯作者が草稿の段階で口絵や挿絵の下絵まで書き込み、絵師はその指定の範囲内で自己の表現力を発揮しました。また錦絵においては、詞書(ことばかき)があることで絵に対する理解を助けています。絵と文を組み合わせる技法とそれらを同時に楽しむ慣習は、江戸から明治以降へと引き継がれていったのです。本章では江戸時代の錦絵や絵入り本を取り上げ、絵と文の関係を見ていきます。

『南総里見八犬伝』第壹輯巻一 口絵

曲亭馬琴による長編読本。右頁に描かれた伏姫は、父・義実との約束で飼い犬・八房の妻となるも、山奥で読経三昧の生活を送る。

『新編水滸画伝』三編巻二拾一 挿絵

「水滸伝」は明の時代に書かれた長編小説で、本書は曲亭馬琴・高井蘭山の翻案による読本。北斎のダイナミックな挿絵は、読者を大いに楽しませた。

『おつこちはなし』 表紙

咄本(はなしぼん)と呼ばれる江戸時代の文芸ジャンルの一種で、短編の笑い話を収録している。表紙には当時の咄家の連名が記されている。

『おつこちはなし』 本文

【右】 花見 だんな「アゝ能けしきだイヤモウどふも 絶景だその上当世の佳人ハ 多し花は真盛なり てん気よし何一ツ申分の ない所だいかにもながめは 花てなくてはかなはぬ ことだ其中にさくらは はなの王たた? たいこ持「ナアニ花の王は山吹に かぎり升 【左】 縁談 ねへおたこさんおまへをよめにほしいと いふ所があるからせわをしよふと 思ふがトンタいゝ所だ何でも親たちと 安心させるが孝行だ 車屋の大八さん所のお力 さんを見なせへ今では大金持の嫁御様で 二親ハ御隠居様でいまに子でもてきれハ 出世の坂の登り口だおまへもお力さんより たちあがつた所でなくツちやぁりきまれ ねへ たこ「とかく縁さ運さ

『北雪美談 時代かがみ』三拾編 口絵

44編まで二世為永春水、45~49編まで柳亭種彦による合巻。二代国貞以外にも、三代豊国(初代国貞)ら歌川派の絵師たちが口絵・挿絵を描いている。

『今古実録 大岡仁政録 鯨論裁許之巻』 表紙

本書は実録本。実録本とは当時、実際にあった事件を題材にした読み物である。表紙を描いた芳幾は歌川国芳の門人で、月岡芳年の兄弟子にあたる。お喜代が化物と間違え、母を殺してしまった場面を描く。

2.速記本の隆盛

演芸速記の嚆矢が三遊亭円朝の『怪談牡丹燈籠』であることは知られているでしょう。速記術普及のために刊行された「牡丹燈籠」でしたが、その好評によって次々と演芸速記本が刊行されていきます。「牡丹燈籠」刊行翌年の明治18年(1885)には、やはり円朝作『塩原多助一代記』が刊行され、同年には円朝と併称された講釈師松林伯円(二代目)の代表作(自作)の『安政三組盃』も刊行されました。読みやすく、内容も起伏に富んでいた講談や落語(人情噺)は読み物として歓迎され、円朝・伯円に続いて落語家では初代春錦亭柳桜や初代談洲楼燕枝、講釈師では猫遊軒伯知や桃川如燕の速記が相次いで出版されます。演芸速記を専門に手掛ける速記者も現れるようになりました。明治期の新聞でも演芸速記は歓迎され、今日の連載小説のように連日連載されることも多々ありました。〈I〉

『三遊亭圓朝演述 牡丹燈篭 全』 口絵

主要登場人物のお露や新三郎らを描く。お露は文金高島田で髪を結い、華やかな着物を着ており、彼女の美しさを強調する描写がされる。竹葉は三代豊国(初代国貞)の弟子で主に開化絵を手掛けていたとされるが、詳細は明らかにされていない。

『安政三組盃』第一編 口絵

「牡丹燈籠」に続く、最初期の速記本。右2番目から津国屋惣兵衛の娘・小染、与力の藤吉郎、小染の情夫・杉田大内蔵を描く。画中に落款はなく、手掛けた画家は不明。

2-1.速記雑誌

明治22年(1889)には演芸速記専門の雑誌『百花園』が創刊され、一席物の落語、講談に加え、長編の講談・人情噺が多く連載されます。この『百花園』が東京の出版社から出されたのに対し、大阪では『百千鳥』がやはり明治22年に発刊されました。その後も東京では『人情世界』『東錦』『娯楽世界』『講談世界』、大阪では『新百千鳥』などの演芸速記専門の雑誌が刊行されています。こうした雑誌には演者たちの消息なども掲載されることもあり、貴重な情報が載せられていることも多くありました。

 こうした雑誌、また新聞などに連載された速記が、本文はほぼそのままで単行本化され、さらに別の出版社から題名や体裁を変えて刊行されることも多く行われました。はなはだしい例では、本文は全くそのままで演者の名前や題名だけを差し替えて出版するものもありました。〈I〉

講談落語家肖像『百花園』第12号 付録

速記雑誌『百花園』の付録。講談師や落語家に加え、画面右下に速記者の酒井昇造を描く。従来の浮世絵風の人物表現とは一線を画し、口演者らの個性を捉えて表そうとする姿勢が垣間見える。

花曇中も宵月『百花園』第13号 挿絵

歌川国芳門下の月岡芳年は、最後の浮世絵師ともいわれる一方、新聞や雑誌など新しいメディアの挿絵も精力的に手掛けていた。本図について目次に「兩婦一夫を争ふ圖」とある。障子を開けるお袖と、だらしない姿で酒を飲む小秀を描き、その後の争いにつなげる役割を持つ。

妾おつな『娯楽世界』第7年第7号 口絵

画中に「伊豆倉屋騒動参照」とあり、本誌に収録された同名の講談に対応する口絵とわかる。おつなは、伊豆倉屋の番頭・甚八の妾。彼女は甚八に命じられ、加賀家の勤番・高岡の思い人に扮し、派手な装いをして高岡と会う。

野木の怪談『娯楽世界』第5年第1号 口絵

本誌に収録された長編講談「野木の怪談」に登場する若い娘おはまと、彼女に執心の観山を描く。おはまは毎夜、枕元に観山が現れると言い、憔悴してしまう。本図は観山につきまとわれ、悩みうつむくおはまを艶やかに描く。

雨夜の星『講談世界』第2年第13号 口絵

怪談「雨夜の星」の口絵。画面左から菊江、お千代、七之助の霊、おみちの霊。菊江は、七之助がおみちに心変わりしたと思い込み、強引に祝言を挙げさせたものの、二人を殺害する。菊江と下女のお千代が二人の霊に遭遇し、驚く場面を描く。

コラム〈主な速記雑誌と画家〉

『百花園』

初の講談落語速記専門の雑誌。巻頭口絵はほぼなく、挿絵は主に月岡芳年や小林清親、渡辺省亭などの著名な画家が担当した。創刊時から人気を博し、毎号約1万5千部売り上げ、速記本の金字塔といわれる。

『百千鳥』

大阪における主要で唯一の速記専門雑誌。明治24年(1891)に『ことばの花』、同28年に『新百千鳥』と改題した。巻頭口絵はなく、挿絵は筒井年峰や稲野年恒など、月岡芳年の門人で大阪でも仕事をしていた画家が中心に手掛けている。

『東錦』

各冊読切形式で速記を掲載。口絵は折込ではなくモノクロ見開きで、挿絵のカット数も少ないが、水野年方をはじめ、安達吟光や後藤芳景など明治期に活躍した画家が担当した。

『人情世界』

各号に収録された速記は少ないが、講談や落語のほかに狂歌なども掲載される。口絵の収録はなく、表紙や挿絵の多くを浮世絵師・楊洲周延の門人、楊斎延一が担っている。

『講談世界』

講談以外に花柳界の話なども収録。明治44年(1911)創刊の『講談倶楽部』(講談社)に競合する形で創刊。近藤紫雲や片山春帆らが表紙や口絵を担当した。本誌は口絵にこだわる姿勢を見せ、『講談倶楽部』を超えようとした。

『娯楽世界』

明治・大正期の講談人気に刺激され創刊されたが、終刊の詳細は不明。歴史小説などの掲載もあった。表紙・口絵・挿絵のほとんどを鰭崎英朋が務めている。大正後期になると神保朋世など、英朋門下の画家が挿絵を描いている。

コラム〈画家たちの系譜と画業〉

 演芸速記本の口絵や挿絵を描いた画家には、浮世絵師、特に歌川派の末裔の者が多くいました。例えば、『百花園』の挿絵を描いた月岡芳年は幕末の浮世絵師・歌川国芳の弟子、『娯楽世界』の表紙と口絵を最も多く手掛けた鰭崎英朋は芳年の孫弟子にあたり、歌川派の系譜を継いでいます。一方、明治20年代後半になるとこの流派以外の画家たちも活躍し、武内桂舟はその一人に数えられます。  また口絵や挿絵を描いた画家には鏑木清方など、日本画家として大成した者もいます。彼らは次第に日本画制作に専念していきますが、画業の原点として口絵・挿絵の仕事は重要なものだったといえます。

2-2.速記本と文学のつながり

明治の新時代を迎え、文学者たちが新しい文体を模索していく過程でも、演芸速記は大きな役割を果たしました。二葉亭四迷が言文一致体を編み出すにあたって、坪内逍遥が円朝の「牡丹燈籠」の速記を参考にしてはどうかとアドバイスしたことは有名です。

口語の記録である速記本は、以後の小説にも影響を与えていきました。文芸(文学)雑誌の中心的存在だった『文芸倶楽部』にも落語や講談の速記が掲載され、演芸速記の特集号も度々刊行されました。また『文芸倶楽部』発行元の博文館は、大正4年(1915)には『講談雑誌』を創刊し、こちらも人気を博しました。

 現在の講談社が、講談速記の掲載を中心とする『講談倶楽部』の刊行(明治44年(1911)創刊)から出発したことも知られています。その後、大正2年(1913)に起きた浪花節(浪曲)の速記掲載に始まる講釈師や速記者とのトラブルを契機として、講談社は速記にかわって作家が創作する「新講談」の掲載に力を入れるようになります。この新講談は大衆文学の興隆発展に大きな影響を及ぼすことになりました。〈I〉

返り咲き『文芸倶楽部』第15巻第14編 口絵

鏡台に向かい汗を拭う女性を描く。『文芸倶楽部』の口絵が本文の内容に沿って描かれていたのは、明治34年(1901)末までといわれており、本図も内容には関係のない独立した美人画と考えられる。

美人撲蛍『文芸倶楽部』第3巻第10編 口絵

団扇で蛍を捕えようとする女性。着物の模様は『源氏物語』第25帖を表す蛍の形の源氏香である。なお、本誌が刊行された明治30年(1897)の『文芸倶楽部』の口絵に、本文の内容に関連するものはなく、この絵も独立した美人画とされる。

美人因果車の図『文芸倶楽部』第2巻第12編 口絵

嵯峨のや主人(嵯峨の屋おむろ)著の小説「輪廻」に対応する口絵。遊郭通いで身を持ち崩し、車夫となった男を描く。左上にコマ絵を設け、その中に女性を描く構図が特徴的。

『文芸倶楽部』第12巻第14編 口絵

『文芸倶楽部』の口絵は目次にその題名が記されていることが多いが、本図については題名の記載がない。本号の副題は「講談落語古今美人揃」となっており、年方は前時代の美人として垂髪で下膨れの平安美人を口絵に描いたと考えられる。

緋金襴『講談倶楽部』第7巻第1号 口絵

新講談「緋金襴」のヒロイン・吉次を描く。彼女の着物について本文中に「緋の金襴に、五彩の糸に刺繍したる一羽の孔雀」と詳細に記されており、洗厓はこれに忠実に描いている。

かちどき『講談倶楽部』第6巻第9号夏季増刊 出世かがみ 表紙

華宵は大正から昭和にかけて活躍し、様々な雑誌に絵を描いた。モダンな画風で当時の少年少女から絶大な人気を得た。本号の表紙には、大きな瞳が印象的な女性を描く。彼女の左手薬指には指輪が光る。

小松あらし『講談倶楽部』第3巻第8号臨時増刊  浪花節十八番 表紙

本号で浪花節の特集をしたことに講談師が反発。『講談倶楽部』は速記による連載をやめ、作家執筆の「新講談」に切り替えた。

薩摩土産 福昌寺仇討『講談倶楽部』第10巻第4号 挿絵

新講談「福昌寺仇討」の挿絵。夫を殺されたおさよが6歳の息子に対し、将来は父の仇を討つよう諭す場面を描く。本図のような挿絵入りのページは、文字を活版で組み、挿絵を木版で制作していたと考えられる。これらから紙型を作成、鉛を鋳込んで鉛版を作り、印刷していた。

任侠黒手組助六『講談雑誌』第16巻第4号 挿絵

助六と身受けされたばかりの揚巻が、見つめ合う場面を描く。春仙は新版画運動に参加し、写実的な役者絵を得意とした。

コラム〈文学とつながりのある速記雑誌と画家〉

『文芸倶楽部』

小説に加え、明治末期から講談や落語の速記を掲載。石版口絵が主流の中、20年間木版口絵の収録を続けていた。当時の人気画家だった武内桂舟と水野年方が多く口絵を描き、その次世代の画家として鏑木清方も精力的に口絵を描いていた。

『講談倶楽部』

講談や落語の速記以外にも、エッセイなどを掲載。井川洗厓が表紙・口絵のほとんどを描いている。洗厓は『百千鳥』の挿絵を担当していた稲野年恒に大阪で絵を習った。また、少女雑誌にも絵を描いていた高畠華宵や鏑木清方の門人・伊東深水の作品も数点ずつ見られる。

『講談雑誌』

自社の『文芸倶楽部』の講談・落語特集の好評と『講談倶楽部』(講談社)の人気を受けて創刊された。花柳裏話、探偵実話なども掲載。本誌の口絵も『文芸倶楽部』で活躍した鏑木清方の起用が多い。またその門人の伊東深水も作品を寄せた。

2-3.単行本について

『怪談牡丹燈籠』の初版など最初期の速記本は和綴じで刊行されることが多く、口絵や挿絵の数も少なかった模様ですが、明治20年代(1887~1896)に入ると洋装で華やかな表紙絵や口絵を収録した速記本の刊行が目立つようになります。ただ、本文の元になった雑誌に掲載されていた美人画などの華やかな口絵や挿絵の多くが単行本では省略される例も多く見かけられます。特に元の雑誌では一種グラビア的な効果を狙った絵に関しては省略される傾向があるように思われます。これは、恐らく使用料などの問題とも関連があるようです。

速記本の版権や原稿料、あるいは印税といった面については版元との間で契約書類が取り交わされるといったようなこともなかったようで、現在から見るとかなりルーズなものでした。「牡丹燈籠」速記者の一人である酒井昇造の弟子だった今村次郎によると、明治30年(1897)頃で一席分に対して演者に一円、速記者に対しては二円程度が大体の相場だったといいます。また、活版印刷で原版の複製を作るための紙製の鋳型である「紙型」を出版社間で売買・譲渡した例も多く、そうした場合の再版では原稿料や印税が発生することはなかったようです。

そうした事情もあって出版社側に演芸速記本は大きな利益をもたらし、中には出資者を募って出版を手掛ける速記者も現れましたが、紙型の使いまわしなど安易な出版による質の低下や、大衆文学の勃興によって読者が離れていき、明治40年代~大正期(1907~1926)頃になると速記本の出版は下火になっていきます。

 その一方、大正末年~昭和初年(1926~1927)頃にかけて起こった「円本」(一冊一円で毎月一冊を配本する文学叢書)ブームの波に乗った形で講談、落語の全集化も行われました。落語家では春陽堂の「円朝全集」全13巻(大正15年(1926))が、講談では講談社から「講談全集」全12巻(昭和3年(1928))、「評判講談全集」といった叢書が刊行されています。こうした叢書類の本文は、ほとんどがこれまで出された単行本からの再録で、他の叢書類もそうであったように口絵、挿絵は全くないか、あってもごくわずかにすぎませんでした。〈I〉

『講談里見八犬伝の五 犬田小文吾』 口絵

錦泉は大阪で活動し、数多くの速記本の口絵を描いた。彼の描く人物は、容貌も体型も細身であるのが特徴。

『講談里見八犬伝の十 八犬士勢揃』 口絵

画面左の定正と顕定は、洞穴で座禅を組む老人・風外道人の元を訪れる。戦いを有利にするため、道人に北西の風を起こしてもらうよう依頼する場面。

『大石内蔵之助』 表紙

表紙を描いた蕉堂は三島蕉窓の弟子であること以外、ほとんど来歴が判明しない。師・蕉窓は『前賢故実』の作者である菊池容斎の門下だった。本図では夜桜が散る中、精悍な顔つきでたたずむ大石内蔵之助を描く。

『時雨の笠森 江戸美人』 表紙

父によって笠森稲荷の茶屋へ売られ、看板娘として評判になったおせんを描く。物語の最後には、彼女の結婚に嫉妬した養父によって殺されてしまう。

『柳影月の朧夜』 表紙

柳橋の芸者の小雛は、愛する秀次郎が函館に旅立ち、病んでしまう。陰影を用いて小雛を描き、写真に近づけようとする意識が感じられる。

『左甚五郎 美術の誉』 表紙

甚五郎は江戸時代初期に活躍したとされる彫刻師で、講談や落語、浪曲などで語られてきた。本文内に、甚五郎が作った恵比須大黒の彫刻がにこりと笑い、周囲が驚いたと記述がある。

コラム〈明治期以降の版画〉

 版画の最も古い制作方法は木版で、浮世絵はその代表的なものといえます。浮世絵は、絵師が描いた版下絵を木の板に貼り付けて彫り、凸部に絵の具を塗って和紙に摺っていました。しかし、文明開化を経た明治期には、石版や写真など新しい印刷技術やメディアが広まり、浮世絵は古い時代のものとなっていきます。  石版画は、木版画のように板面に凹凸を作るものではなく、平面上で水と油の反発しあう性質を利用して作られます。明治期以降は手間とコストがかかる凸版の木版ではなく、早く大量に印刷できる平面の石版が主流になりました。また、線で表す木版と異なり、石版は画家の絶妙な筆致も表現することができます。『柳影月の朧夜』や『左甚五郎 美術の誉』の表紙のような一見写真風の絵も、石版の技術を用い、陰影を施すなど写実的な表現を追求しているのがわかります。一方、人物の髪などは、毛の1本1本を表現できる木版の方が適しているといえます。

3.変化していく速記本

第二次世界大戦後、日本の出版界そのものが大きな変革を迎える中、演芸速記本もまた、大きな変化を迎えることになりました。その一つが落語、講談といった寄席芸が戦前までとは別の価値を認められるようになってきたことです。「古典落語」という呼称そのものは戦前からありましたが、戦後になると、落語や講談の中に見られる一種の古典性(あるいは普遍性)が注目されるようになります。一方、技術の進歩にともない、速記者が演者の前で速記を取るという方法から、録音をもとに本文を作っていく方法に変化していきます。

そうした気運の影響があったのか、いささか乱暴な分け方ですが、戦後の落語集・講談集は戦前までの娯楽読物としての速記本の流れをひくものと、それに加えて演者個人の口演を重んじるものとの二つに分かれていくといっていいでしょう。終戦から昭和20年代頃までは、戦前の速記を流用した叢書がいくつか見られるものの、30年代以降は当時一線で活躍していた演者の口演をそのまま再現しようという意図で編纂されたものが目立ってきます。

いくつか例を挙げれば、普通社「落語名作全集」(昭和35年(1960))、筑摩書房「古典落語」(昭和43年(1968))といった叢書は演者の動き、口調の様子など、出来るだけ実際の口演に近づけようという記述になっています。こうした方針のもと、演者の実際の動きを見せて理解を深めようと、絵に代って写真が用いられるようになりました。展示冒頭で触れましたように、演芸速記における口絵・挿絵の多くは登場人物や場面を画像で示して読者の理解を助けるか、あるいは本に華やかさを添えるためのものでしたが、戦後にいたってその機能は重んじられなくなり、「円生全集」(昭和35年(1960))に始まる青蛙房の落語集(「桂三木助集」「柳家小さん集」など)はいずれも演者の写真(演じる姿を写したものも多い)を掲載しています。

 また一方、これまで残された速記の中から演者、演目を精選し、新たに活字化して鑑賞あるいは研究に提供しようとの動きもありました。その代表的なものとしては「口演速記 明治大正落語集成」(講談社、昭和55年(1980)~)「名人名演落語全集」(立風書房、昭和57年(1982)~)が挙げられます。〈I〉