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戦争とわたしたちのくらし34

企画展№622「戦争とわたしたちのくらし34」(会期:令和7年(2025)6月17日~9月15日)の展示内容をオンラインギャラリーでも公開します。

はじめに

昭和20年(1945)6月19日深夜から翌日未明にかけて、アメリカ軍の長距離爆撃機B-29の大編隊から投下された焼夷弾(しょういだん)により、福岡市の中心部は焼け野原になりました。特に、博多部は甚大な被害をうけました。福岡市は、この日を「福岡大空襲」の日として戦災死者の追悼を行っています。福岡市博物館では、平成3年から6月19日前後に企画展示「戦争とわたしたちのくらし」を開催し、戦時期の人びとのくらしのあり方を、さまざまな観点から紹介してきました。

34回目となる今回は、昭和100年、戦後80年の節目ということで、福岡の人びとと昭和改元、戦争の時代に求められた役割、福岡大空襲、戦後のくらしを振り返ります。

戦後80年を迎えた今、昭和時代戦中、戦後の福岡の人びとのくらしのあり方に触れることで、改めて戦争と平和を考える機会になれば幸いです。

新たな時代―昭和改元

 大正15年(1926)12月25日に大正天皇が崩御し、皇太子裕仁親王(昭和天皇)が皇位を継承しました。

同日に元号は大正から昭和に改められます。約1年間は大正天皇の喪に服する期間とされ、昭和時代は静かに始まりました。

 福岡市では昭和2年(1927)3月から5月にかけて東亜勧業博覧会が開催されます。この背景には、産業の振興を通じて第一次世界大戦後の不況から脱却したいという経済界の希望がありました。博覧会は160万人を超える入場者を集めましたが、国内外の経済的危機が重なった結果不景気は長く続きました。

 昭和3年、昭和天皇の即位の儀式が大規模に行われました。儀式のひとつに大嘗祭があります。これは、即位した天皇が新たに収穫した米を皇室の祖先に備え、五穀豊穣に感謝するものです。早良郡脇山村(現 早良区)が大嘗祭に用いる米をつくる場所に選ばれました。

〔日記〕

熊本県内の学校に勤務していた教員の日記。12月25日に大正天皇の崩御を聞き、ご真影の前で告別式を開催したこと、26日に元号が昭和に改められたことを記す。

〔日記〕

大正天皇の崩御後、裕仁親王(昭和天皇)はすぐに即位せず、1年間は喪に服し儀式をひかえた。これを諒闇という。国民もそれにならい、さまざまな行事が自粛された。

東亜勧業博覧会 女神のポスター

会期:昭和2年3月25日~5月23日  東亜勧業博覧会は「東亜経済界」の「産業の振興」と「貿易の振暢(しんちょう)」を目的に、昭和2(1927)年福岡市城内西側の「大濠(おおほり)」埋め立て地で開催された。これはその広報のために大正15(1926)年11月に配布された大型のポスターである。  ポスターはアール・ヌーヴォー調の女性を大きく描き、暖色系で華やかな感じにまとめられている。開催予定時期が「大正16年」となっているのは、配布直後に昭和に改元されたため。実は12月に大正天皇(たいしょうてんのう)が急逝したため、翌年の博覧会開催は危ぶまれたようである。実際に全国各地で歌舞音曲が中止され、その分昭和3年は「御大典記念(ごたいてんきねん)」と称して博覧会が各地で聞かれた。しかし福岡・博多の財界人たちは、大正13年に準備を始め、既に全国43府県と朝鮮(ちょうせん)・台湾(たいわん)・満州(まんしゅう)などへも参加を呼びかけていたため、博覧会開催を中止することはできなかった。その背景には第一次世界大戦後の不況の打開という大きな課題があった。  博覧会は盛況だったようで、3月25日から5月23日までの60日間に160万余の入場者が会場につめかけた。しかしその華やかさとは裏腹に不況状態はすすみ、時代は「戦時期」へと移っていった。

福岡市主催東亜勧業博覧会全景図 

東亜勧業博覧会の会場図と交通図を印刷する。この博覧会に合わせて西公園下、福岡城趾の大堀の一部を埋め立て、博覧会会場を造った。

東亜勧業博覧会記念画報 

博覧会の盛況や福岡市内の名所、自社主催のイベントの様子を紹介する。後半には、若槻礼次郎内閣の総辞職と銀行に殺到する人びとといった政治・経済の動向を伝える。

ポスター「東亜勧業博覧会」

母子を主題とするポスター。3万枚印刷され、施設や店舗での掲示のため、九州、四国、中国地方の旅館、飲食店、銭湯、理髪店などの組合に配付された。

ポスター「東亜勧業博覧会」

母子を主題とするポスター。3万枚印刷され、施設や店舗での掲示のため、九州、四国、中国地方の旅館、飲食店、銭湯、理髪店などの組合に配付された。

東亜勧業博覧会の絵葉書

福岡市博物館

八乙女写真

昭和3年(1928)6月5日の御田植祭で披露された八乙女舞の写真。舞は宮内省の楽師が作曲し、舞う女性は脇山村(現 早良区)から選ばれた。

早乙女衣裳

女性用の作業服。福岡県女子専門学校(現 福岡女子大学)の教授ほか女子学校の教諭によってデザインが決められた。布地の製作は久留米絣共同組合が担当した。

主基斎田収納米「昭代」

主基斎田で栽培された米は昭代と命名された。収穫された昭代は選別の上、大嘗祭が行われる京都に送られ、残りは関係者に配付された。

主基斎田模型博多人形

主基斎田とは、天皇の即位の儀式のひとつである大嘗祭で使用する米を栽培する田のこと。宮内省での占いによって主基地方が福岡県に定められ、県が耕作地を選んだ。

絵葉書「主基斎田記念絵葉書」

昭和3年(1928)、天皇の即位の儀式のひとつ、大嘗祭で使用する米を作る場所に早良郡脇山村(現 早良区)が選ばれた。福岡県の主導で水田の経営が行われた。

ポスター「ゆりかごの唄」

アメリカ映画のポスター。昭和時代にはサイレント(無声映画)からトーキー(発声映画)への切り替えがすすむ。いち早くトーキーに変わった洋画が多く上映された。

ポスター「愛染かつら」

小説を原作とする恋愛ものの映画。田中絹代、上原謙の二大スターを主演にすえたことで大ヒットした。戦争の長期化、戦線の拡大の中で邦画の役割は大きくなっていく。

ポスター「消えゆく灯」

アメリカ映画の公開を知らせるポスター。明治37年(1904)開業の寿座は当初芝居小屋だった。客席や音響の更新を続け、大作が最初に上映される映画館に成長した。

ポスター「妻と女秘書」

弁天座は昭和8年(1933)に邦画上映館として開館したが、取り扱った洋画が好評を博し、洋画専門館に変えた。その後経営不振のため、ニュース映画館に転向した。

戦争と国民―「総力戦」

 昭和12年(1937)7月、盧溝橋事件が発生し、日本と中華民国の間で戦争が始まりました。日中戦争は長期化し、さらに昭和16年12月にはアメリカとの戦争に突入します。昭和時代の戦争は、戦争継続を目標に人員、物資を計画的に動員する総力戦でした。多くの男性が兵士として召集される一方、直接戦闘に参加しない銃後の国民は、戦争を支援する体制に組み込まれることになります。銃後の国民には、兵士の送迎や慰問、貯蓄、食糧・資源の増産、防空対策など、多くの役割がありました。

日の丸旗(信友印正司に贈る)

徴兵検査に合格した友人に贈られた日の丸旗。満20歳の男性は徴兵検査を受け、体格などにより甲・乙・丙種の合格者が選ばれる。合格者は召集の上、兵役についた。

日の丸旗

私立西南学院経済専門学校(現 西南学院大学)の学生の応召の際に作成された、寄せ書きされた日の丸旗。昭和18年(1943)、20歳に達した学生の応召がはじまった。

幟旗(祝入営 印正司君)

兵役につくことを祝って製作された日の丸の幟旗。兵士としての命運が長く続くことを祈る言葉が書かれる。地域・職場での入営祝いの際にかかげて使用された。

軍服 上衣

太平洋戦争期の大日本帝国陸軍の軍服。襟章は赤地に黄色線3本、五芒星2つで中尉の階級を示す。着用者は昭和20年(1945)8月20日に中尉に昇進した。

慰問袋

銃後の国民から戦地の兵士に送る袋。木綿製や麻製があった。袋の中には、日用品、食料品、医薬品、手紙・写真などの慰問品を入れた。

慰問袋

銃後の国民から戦地の兵士に送る袋。木綿製や麻製があった。袋の中には、日用品、食料品、医薬品、手紙・写真などの慰問品を入れた。

皇軍慰問お人形帖

少女向け雑誌の付録。少女人形の作り方と完成形のイラストを掲載する。銃後の国民が全線兵士に贈る慰問品は手紙や人形、お守りなど手作りの品がよいとされた。

絵葉書「御慰問」袋

前線兵士への慰問用に製作された絵はがき。絵柄は、博多祇園山笠といった福岡の風物に関するものと、勤労奉仕など兵士を支える銃後の様子を描いたものがある。

絵葉書「御慰問」祇園山笠祭り(博多)

前線兵士への慰問用に製作された絵はがき。絵柄は、博多祇園山笠といった福岡の風物に関するものと、勤労奉仕など兵士を支える銃後の様子を描いたものがある。

絵葉書「御慰問」ドンタク

前線兵士への慰問用に製作された絵はがき。絵柄は、博多祇園山笠といった福岡の風物に関するものと、勤労奉仕など兵士を支える銃後の様子を描いたものがある。

絵葉書「御慰問」博多人形

前線兵士への慰問用に製作された絵はがき。絵柄は、博多祇園山笠といった福岡の風物に関するものと、勤労奉仕など兵士を支える銃後の様子を描いたものがある。

申合せ(出征将兵や戦傷病勇士の激励慰問ほか)

出征軍人やその家族の支援を行う婦人団体である大日本国防婦人会の福岡市支部が示した行動方針。兵士の激励や軍人遺族の援助、節約、廃品回収など5項目を定める。

書簡(昨日初めて慰問袋をもらった件ほか近況報告)

戦地から内地、もしくは内地から戦地へ送られる郵便を軍事郵便とよぶ。陸軍野戦病院の医師が妻に送った手紙で、東京から慰問袋が送られてきたことなどを記す。

つわもの鏡

前線兵士に慰問品として送る用途で製造された2面入りの小型の鏡。裏面に女性の顔写真が張り込まれている。

慰問箱「兵隊さん有難う」

慰問品を入れて戦地へ送付するための箱。側面に宛先・差出人の記入欄があり、軍事郵便(小包)で送ることができた。福岡松屋は橋口町(現 中央区)にあった百貨店。

ポスター「国民防空展」

上空からの攻撃への対処を意味する防空に関する展覧会のポスター。図柄には空襲を想像させる爆弾や防毒マスクを用いる。会場は天神町(現 中央区)の岩田屋百貨店。

ポスター「国民防空展」

上空からの攻撃への対処を意味する防空に関する展覧会のポスター。図柄には空襲を想像させる爆弾や防毒マスクを用いる。会場は天神町(現 中央区)の岩田屋百貨店。

写真 消火作業のバケツ操作訓練

萱堂町(現 博多区)で行われた防火訓練の写真。横2列に並び、バケツの受け渡しを行うバケツリレーを撮影する。手前の列がバケツを送り、奥の列が戻している。

天井板で作った弁当箱

金属回収で供出したアルミ製の弁当箱の代わりに、家屋の天井板でつくった弁当箱。戦争の時代には防火のために天井板や障子をはずすよう指導された。

戦時のことば―戦争継続のために

 銃後の国民に向けた戦争への協力の呼びかけでは、国債購入、貯蓄、軍人援護、資源供出などのテーマで標語が作られました。ポスターや駅弁掛紙に標語を記す際には、文字だけでなく印象的な図柄が用いられます。

 図柄は、前線兵士や兵器、戦争の目標を描くものと、銃後の国民の理想的な姿を描いたものが多くありました。

ポスター

ポスター「貯蓄で築け新東亜」

政府は戦費の一部をまかなうため、銃後の国民に貯蓄をすすめた。「百億貯蓄」の文字がクレーンで吊られるが、これは昭和14年度に決められた貯蓄の目標額である。

ポスター「支那事変国債」

支那事変国債は、日中戦争の費用を国民から調達するために国が売り出した債券である。国民が国債を購入すれば、前線に兵器を供給できることを暗示する。

ポスター「支那事変国債」

子どもが町内会の黒板に「ムダヅカヒセズ コクサイヲカイヒマセウ」と書く。銃後の国民、特に町内の子どもがいる家庭に節約と国債購入を求めたことがうかがえる。

ポスター 「貯蓄スルダケ強クナル」

銃後の国民に貯蓄をすすめるポスター。算盤を持つ女性が印象的である。「オ国モ家モ」と言葉から、国民の貯蓄が戦争継続につながることを示している。

ポスター 貯蓄

やわらかなタッチで街並みを描く。図柄は牧歌的であるが、電信柱に貼られた「貯蓄報国」の貼り紙や郵便局前の看板が戦争の時代を感じさせる。

ポスター 「遂げよ聖戦備へよラヂオ ラヂオ普及運動」

ラジオは速報性のあるメディアとして昭和時代に登場し急速に普及した。戦時期には各地の戦況や敵機襲来の情報を迅速に知る必要性から、ラジオの普及運動が行われた。

ポスター 「銃後を護れ火を守れ」

銃後の国民の防火意識を高めるために作成されたポスター。貴重な資源やお金を火災で失うことのないよう呼びかける。

ポスター 「銃後の護りを固めませう」

国民精神総動員運動は国民の戦争支援体制強化を目指す運動で、日中戦争開始後に展開された。このポスターには、出征兵士の分まで農地を耕す人びとの姿が描かれる。

ポスター「国債を買って戦線へ弾を送りませう」

「国債を買って戦線へ弾丸を送りませう」という標語とともに、煙突を背景に鎖でつり上げた弾丸を描く。銃後の国民の国債購入が戦争継続につながることを表現する。

ポスター「御国を守れ 歯を護れ」

口を開け、手に歯ブラシを持った兵士が印象的なポスター。「虫歯予防デー」は日本歯科医師会が昭和3年(1928)に制定した。現在は「歯と口の健康週間」と称する。

ポスター ヒマを捧げよ

唐胡麻(蓖麻)の種子から得られるヒマシ油は、粘度が高く航空機の潤滑油に使用された。政府は、石油資源の不足を補うため国民にヒマの栽培を呼びかけた。

ポスター ヒマを捧げよ

唐胡麻(蓖麻)の種子から得られるヒマシ油は、粘度が高く航空機の潤滑油に使用された。政府は、石油資源の不足を補うため国民にヒマの栽培を呼びかけた。

ポスター「鉱業報国」

発行元は、大名町(現 中央区)にあった、炭鉱などの鉱山の警察、事務を担当する機関。石炭は国内で採取できる貴重なエネルギー資源であり、増産が期待された。

ポスター「たのむぞ石炭」

前線兵士が銃後の国民に石炭増産を呼びかける姿を描く。デザイナーの高橋春人(1914~1998)は、東京パラリンピックや赤十字共同募金のポスターを手がけた。

弁当の掛紙

掛紙(上等御弁当)

掛紙(御弁当 総力戦一人一人がみな戦士)

大阪駅で販売された駅弁のラベル。前線の兵士だけでなく、産業に関わる人や女性も協力して戦争を支援することをよびかける。

掛紙(御弁当 健康進軍)

姫路駅で販売された駅弁のラベル。昭和の戦争の時代には、兵士から軍需産業に従事する労働者や女性、子どもまで、戦争継続のため健康に注意することが求められた。

掛紙(御弁当 欲しかりません勝つまでは)

昭和17年(1942)に大政翼賛会と新聞社が太平洋戦争1周年を記念して国民に標語を募集した。この標語は入選作品となり、さまざまな場面で使用された。

掛紙(御弁当)

食料品である駅弁のラベルには、米の節約に関するスローガンがかかげられることが多い。日本に生まれたことに感謝して節約して生活すべきとの標語もそえられる。

掛紙(上等御弁当)

鉄道の駅で販売される駅弁のラベルには、輸送に関する標語も多く見られる。鉄道の持つ輸送力を戦争のために優先的に使用することを呼びかける。

掛紙(決戦食御弁当)

太平洋戦争が3年目を迎える昭和18年(1943)12月から、銃後の国民が戦力増強のため軍事工場で積極的に働くことを「一億戦闘配置」という言葉で表現した。

記(重点輸送強化運動)

機関車の上に「遊覧車」と「贈答品」が乗っており、戦車や爆弾がこれを見る様子を描く。旅行や戦争に関係のない物品が、軍需品の輸送をさまたげることを示す。

掛紙(かしわ飯)

かしわ飯は鶏肉を使った料理であるが、掛紙には「本日は肉なし日」の朱印がある。筑紫軒は昭和17年(1942)に店名を東筑軒に変え、現在も営業している。

掛紙(御茶附上等御弁当)

博多駅で販売された駅弁のラベル。銃剣を持つ兵士の絵とともに、「お互に御飯を粗末にせぬやうに致しませう」の言葉がそえられる。

掛紙(上等御弁当 奉祝建国祭紀元二千六百年)

昭和15年(1940)は最初の天皇である神武天皇が即位してから2600年目の年とされた。これを記念して、各地で神社の祭典や展覧会、体育大会などが開催された。

掛紙(上等御弁当 重点輸送の確保 防空陣の完璧)

春の行楽について注意をうながす言葉が並ぶ。鉄道による行楽は優先すべき物資の輸送をさまたげ、銃後の国民が組織的に行う必要のある防空にも支障をきたすとする。

掛紙(御弁当 私するな輸送力)

銃後の国民に求められるふるまいが複数書かれたラベル。横書きで鉄道の私的利用に対する注意を書く。縦書きで米生産者への感謝、弁当の折箱などの再利用を求める。

掛紙(代用食 愛国弁当)

代用食とは、米の節約のために考案された米の代わりになる食料のこと。米に雑穀類をまぜたり、サツマイモを主食としたりした。

掛紙(上等御弁当)

「国を護った将兵護れ」は軍人や軍人遺族の支援をよびかけるスローガン。「護る公徳輝く文化」はマナーの向上が文化向上につながるという乗車マナーに関する標語。

掛紙(上等御弁当)

掛紙(上等御弁当 輝く戦果に感謝の貯蓄)

銃後の国民に対して、前線兵士の戦果への感謝の意を示す貯蓄を行うことをすすめるスローガンを印刷する。

掛紙(御弁当)

延岡駅で販売された駅弁のラベル。繊維工場や高千穂峡といった延岡近郊の名所の絵柄とともに、米を粗末にしないことをすすめる言葉がそえられる。

掛紙(御弁当 がんばらう)

掛紙(上等御弁当 この一年旅行は止めだ)

不要な旅行をひかえ、輸送力を戦争の継続に使用することを訴えるスローガンを印刷する。人びとのくらしから余裕が失われていく様子がうかがえる。

掛紙(御飯 毎月一日興亜奉公日)

興亜奉公日は昭和14年(1939)9月1日からはじまった。銃後の国民が前線兵士の苦労を思い、協力して奉仕活動を行う。国旗掲揚や神社参拝、勤労奉仕を行った。

掛紙(御弁当)

宇都宮駅で販売された駅弁のラベル。近辺の名所案内を印刷する。外側に赤字で米の節約と乗車マナーの向上に関するスローガンを記載する。

掛紙(鯛飯)

掛紙(まくのうち御弁当)

「国民精神総動員」は国民が団結して自発的に戦争を支援することを求める運動。「廃品還元」と「消費節約」は、国民精神総動員運動で展開されたスローガン。

掛紙(幕の内御弁当)

掛紙(御弁当)

掛紙(御弁当 百七十億貯蓄絶対完遂)

名古屋駅で販売された駅弁のラベル。銃後の国民に170億円の貯蓄を達成することをよびかける。国民の貯蓄目標額は大蔵省の主導のもとで決められた。

掛紙(御弁当 感謝でいたゞき工夫で節米)

生産者に対する感謝と米の節約をよびかける。「感謝でいたゞき工夫で節米」は、昭和15年(1940)に北國新聞社(石川県)が発表した戦時標語。

掛紙(一億一心御弁当)

昭和時代には植民地を含めた日本の人口がほぼ1億人に達した。「一億一心」はすべての国民が心をひとつにするという意味の言葉で、戦時の標語によく使われた。

掛紙(お茶付御弁当 お互ひに節米に協力致しませう)

岡山駅で販売された駅弁のラベル。デザインとして斜めに配置された「東亜新秩序建設」「日満支提携」「堅忍持久」は、日中戦争期に政府が打ち出したスローガン。

掛紙(国策弁当 食糧報国)

掛紙(御茶付弁当)

不要な旅行をひかえるよう訴える。背景に白抜きされた防諜は、敵によるスパイ活動を防ぐことを意味する言葉で、軍の情報を他者に話さないことなどを指す。

掛紙(興亜新秩序建設お結弁当)

尾道駅で販売された駅弁のラベル。「応へよ将兵に」という言葉と兵士、慰問袋の絵によって、銃後の国民が前線兵士の期待にこたえ戦争支援を行うことを求める。

掛紙(御弁当)

掛紙(御飯 国策に協力 節米励行)

国策は国が決定した政策のこと。大正時代の終わりから昭和時代戦前、戦中期には政党や派閥によらない、国の一貫した政策としての国策に関心が集まった。

福岡大空襲と戦争の終わり

 太平洋戦争末期の昭和20年(1945)には、米軍による日本の都市への空襲が本格化します。

 福岡大空襲では、6月19日の深夜から翌日の未明にかけて、マリアナ基地から飛来した約220機の爆撃隊が福岡市を襲撃しました。投下された焼夷弾は1358トンに及んだといわれます。『福岡市史』によれば、被災面積は3・78㎢、被災人口は6万599人、死者902人、負傷者1078人、行方不明者244人という甚大な被害でした。ただし、これらは判明しているものだけで、被害はより大きかったと考えられます。

 8月14日、日本政府は連合国軍によるポツダム宣言を受諾することを決め、翌日にラジオ放送で国民に知らせました。9月2日には、降伏文書への調印式が行われ、国際的に終戦が確定します。

 終戦によって戦時に国外にいた人びとの本国帰還が始まりました。軍人・軍属にあった人びとの帰還は復員と呼ばれ、これ以外の人びとの帰還は引き揚げと呼びます。博多港は引揚援護港に指定され、昭和22年まで、約139万人の復員・引き揚げ者を迎えました。

昭和二十年日記

福岡市内住吉町(現 博多区)に住む男性が記した日記。6月19日と20日には、B-29の飛来から退去、空襲後の市内各地の焼失状況を記す。

電探妨害用テープ

福岡大空襲の際にアメリカ軍が使用した、錫製の帯状の金属片。電波探知機(レーダー)が発する電波を反射させ、爆撃機を捕捉しにくくするため投下された。

電探妨害テープ

福岡大空襲の際にアメリカ軍が使用した、錫製の帯状の金属片。電波探知機(レーダー)が発する電波を反射させ、爆撃機を捕捉しにくくするため投下された。

航空写真「FUKUOKA SHEET No.1 OF 2」

航空写真「FUKUOKA SHEET No.2 OF 2」

写真 焼け跡-天神より見た県庁、市役所、西日本新聞社

松屋百貨店(現 ミーナ天神)から市役所方面を撮影した写真。中央に写る市役所や、左の福岡県庁のほか、大型の建物が焼け残っている。

写真 焼け跡-天神地区より博多港方面を望む

昭和20年6月19日の福岡大空襲の後に撮影された天神地区から臨海部の写真。石造・コンクリート造のものを除きほとんどの建物が焼失した。

焼夷弾破片

福岡大空襲の際に米軍が使用した焼夷弾。筒の内部にはゼリー状の発火性薬剤を詰める。尾翼がわりのリボンが燃えながら落ちる様子は「火の雨がふる」といわれた。

焼夷弾部品

当仁校区にある大圓寺(中央区)に投下された焼夷弾の部品。この部品は、束ねた焼夷弾を段組みにする際の境板と、表面をおおう金属の破片である。

銅銭

壺に入れて保管されていた古銭の束が、火災の熱で融解して固まったもの。福岡大空襲の後、麹屋町(現 博多区)の土蔵で発見された。

人形

古銭の束と同じく、福岡大空襲の後、麹屋町の土蔵で発見された。本来は表面に彩色をほどこし漆を塗った人形であったが、火災の熱で彩色を失ったという。

リュックサック

手作りのリュックサック。南方から復員する際に自転車のスポークを材料にミシン針10本を作った。このうち2本をゆずるかわりに作ってもらったもの。

罹災証明書

福岡大空襲の後に発行された空襲の被害にあったことを示す証明書。左側に乗車人数や区間を記す部分がある。鉄道の乗車券を優先して発行してもらうことができた。

引揚証明書・罹災証明書

終戦後国外にいた人びとの内地帰還がはじまった。一般の人の帰還は引揚とよばれる。この証明書は日本人が内地に帰還したことを示すもの。 空襲の被害を示す証明書。町名や隣組の番号、被害にあった人の名前や人数、避難先を書く場所がある。証明書を見せると避難先でも配給を受けることができた。

引揚写真

昭和20年(1945)11月、博多港は引揚港に指定された。中国北東部や朝鮮半島などからの帰還者を受け入れた。約1年半の間で約139万人が博多港に上陸した。

写真 引揚者の乗船名簿を見る人々

引揚援護局が置かれた博多港には、引揚者を乗せた船が停泊した。日本のものだけでなく、アメリカ軍から貸与された輸送船も使用された。

写真 出征兵士のための帰還船

写真(博多港ヵ)

米軍関係者が撮影した博多港の写真。博多湾内に多数の船舶を確認できる。引揚援護局があった博多ふ頭は博多港の東側に位置するが、この写真には写っていない。

戦後を生きる

戦災からの復興は、罹災地域のがれきの清掃から始まりました。モノ不足によって配給制が続く一方で、物資を高価に売るヤミ市がうまれ、福岡市は取り締まりを行いました。被災した街の復興は昭和21年(1946)1月に福岡市が設置した復興部が新たな都市計画を決定してから本格化しますが、経済的混乱の中で規模を縮小せざるを得なくなりました。人びとは、戦時中から続くモノ不足や戦後の制度の変化に対応しながら、街やくらしの再建をすすめていきました。

写真 戦災者の土管生活

空襲で家を失った人びとの中には、土管や防空壕など、一時的に雨風をしのぐことのできる場所を探し、生活の立て直しをはかる人もいた。

写真 福岡大空襲後に建ちはじめた戦災住宅

昭和20年(1945)秋には福岡大空襲で被災した奈良屋校区に約200戸の戦災復興住宅が建てられた。市と民間の両方で復興のための簡易住宅が多数建築された。

写真(九州飛行機の資材置場)

九州飛行機雑餉隈工場では、昭和16年(1941)から終戦までに7種類2260機の航空機を生産した。戦後工場には水上飛行機のフロート(浮舟)部分が残された。

写真(日本軍の野戦砲)

日本軍の野戦砲が溶接トーチバーナーで切断されている写真。米軍基地内の弾薬集積所で撮影された。

写真(防空壕)

板付基地内にあった防空壕。基地の前身である席田飛行場は、日本陸軍が昭和19年(1944)に建設をはじめた。翌年滑走路が完成するも戦後アメリカ軍に接収された。

写真(福岡市街地空撮)

終戦から約半年後の福岡市市街地の空撮写真。薬院(現 中央区)より南側には建物の屋根が多く確認できるが、北側は空き地が多く、空襲の被害の大きさがわかる。

写真(福岡港・西公園空撮)

大濠公園上空から北側を撮影した写真。左側に写る光雲神社は被害を受けているが、付近一帯には家屋や木々が見え、空襲の被害をのがれたことがわかる。

写真(戦災を受けた市庁舎周辺)

終戦から3ヶ月後の天神地区の写真。中央に見える大きな建物が福岡市役所。左に福岡県庁がある。空襲直後にあった大量のがれきは撤去され、空き地が広がっている。

写真(福岡・万町付近)

終戦から約3ヶ月後の天神町(中央区)で撮影された写真。路面電車が走る通りは渡辺通りで右奥に松屋百貨店が見える。晴れ着姿の子どもが正月の雰囲気を伝える。

写真(大濠公園・福岡城趾空撮)

大濠公園から福岡城内にかけての空撮写真。明治通りの北側は空襲の火災で焼失した。建物が残った福岡簡易保険支局は米軍に接収されて陸軍病院として使用された。

写真(和傘の撥水加工作業)

通りに面した店先で和傘を作る職人の写真。板付基地駐在のアメリカ空軍写真班の軍人が福岡市内で撮影した。撮影者にとって印象的な光景だったのかもしれない。

初等科國語 四

写真(福岡・基地からの木材運搬)

3人の女性が廃材を積んだリアカーを引く。米軍が接収した板付基地の中で不要となった廃材は、日本人が持ち帰ることができた。

写真 食糧難時代の買出し

主要な物資は配給されたが、それだけで生活するのは困難であり、人びとは市場で調達した。モノ不足で物価が高くなり、公設市場よりも高く売るヤミ市が登場した。

主要食糧配給通帳

昭和15年(1940)に米が配給制がはじまり、以降は主要な食料や調味料も配給制となった。戦後も食料不足は続いており、多くの食料品の配給が継続された。

衣料切符

戦時中には衣料品に点数が設定され、配給される衣料切符で点数を払った上で購入するしくみになっていた。衣料切符は布不足が解消される昭和25年(1950)まで続く。

配食缶

昭和19年(1944)に佐世保で海軍に入隊した兵士が部隊で使用したもの。戦後に復員した後も自宅で炊事用具として使用された。

リュックサック

手作りのリュックサック。南方から復員する際に自転車のスポークを材料にミシン針10本を作った。このうち2本をゆずるかわりに作ってもらったもの。

写真(筥崎宮参道)

昭和21年(1946)の1月2日に筥崎宮(現 東区)の参道で撮影された写真。舗装されていない参道は人がまばらで、左側に荷車をひく馬がとめられている。

写真(千代町)

千代町(現 博多区)の交差点付近を撮影した写真。路面電車が走る広い通りを人びとが往来する。博多部と石堂川でへだてられた千代町は福岡大空襲の被害が少なかった。

写真(福岡、路面電車)

天神町(中央区)で路面電車に乗る人びとを撮影する。右奥に岩田屋百貨店の建物が見える。車内は混雑しており、乗車待ちの列に打掛姿の女性がいるなどにぎわいを見せる。

写真(空襲後の福岡市街地)

アメリカ陸軍および空軍の教育機関に勤務するアメリカ人が撮影した、昭和21(1946)、22年ごろの写真。裏面に「Fukuoka」と撮影者によるメモがあることから、福岡市内の写真と考えられる。詳細な場所は不明であるが、がれきでおおわれた街に立つ大きな建物を撮影している。〔第36回新収蔵品展〕

写真(西中洲から西大橋方面)

手前の西中洲には大小のがれきや金庫などが残ったままになっている。奥に西大橋や県公会堂貴賓館が見える。

写真(新天町)

新天町商店街は昭和21年(1946)に誕生した。福岡大空襲で被災した天神町の再建にあたり、当時横行したヤミ市に対して、公正な価格で販売する場所となった。

写真(第118陸軍病院)

昭和9年(1934)3月に大濠公園近くに建設された逓信省福岡簡易保険支局は、昭和20年6月の福岡大空襲の際も焼失を逃れた。終戦後は米軍に接収され、陸軍病院として使用された。〔第36回新収蔵品展〕