戦争とわたしたちのくらし34
企画展№622「戦争とわたしたちのくらし34」(会期:令和7年(2025)6月17日~9月15日)の展示内容をオンラインギャラリーでも公開します。
はじめに
昭和20年(1945)6月19日深夜から翌日未明にかけて、アメリカ軍の長距離爆撃機B-29の大編隊から投下された焼夷弾(しょういだん)により、福岡市の中心部は焼け野原になりました。特に、博多部は甚大な被害をうけました。福岡市は、この日を「福岡大空襲」の日として戦災死者の追悼を行っています。福岡市博物館では、平成3年から6月19日前後に企画展示「戦争とわたしたちのくらし」を開催し、戦時期の人びとのくらしのあり方を、さまざまな観点から紹介してきました。
34回目となる今回は、昭和100年、戦後80年の節目ということで、福岡の人びとと昭和改元、戦争の時代に求められた役割、福岡大空襲、戦後のくらしを振り返ります。
戦後80年を迎えた今、昭和時代戦中、戦後の福岡の人びとのくらしのあり方に触れることで、改めて戦争と平和を考える機会になれば幸いです。
新たな時代―昭和改元
大正15年(1926)12月25日に大正天皇が崩御し、皇太子裕仁親王(昭和天皇)が皇位を継承しました。
同日に元号は大正から昭和に改められます。約1年間は大正天皇の喪に服する期間とされ、昭和時代は静かに始まりました。
福岡市では昭和2年(1927)3月から5月にかけて東亜勧業博覧会が開催されます。この背景には、産業の振興を通じて第一次世界大戦後の不況から脱却したいという経済界の希望がありました。博覧会は160万人を超える入場者を集めましたが、国内外の経済的危機が重なった結果不景気は長く続きました。
昭和3年、昭和天皇の即位の儀式が大規模に行われました。儀式のひとつに大嘗祭があります。これは、即位した天皇が新たに収穫した米を皇室の祖先に備え、五穀豊穣に感謝するものです。早良郡脇山村(現 早良区)が大嘗祭に用いる米をつくる場所に選ばれました。
会期:昭和2年3月25日~5月23日 東亜勧業博覧会は「東亜経済界」の「産業の振興」と「貿易の振暢(しんちょう)」を目的に、昭和2(1927)年福岡市城内西側の「大濠(おおほり)」埋め立て地で開催された。これはその広報のために大正15(1926)年11月に配布された大型のポスターである。 ポスターはアール・ヌーヴォー調の女性を大きく描き、暖色系で華やかな感じにまとめられている。開催予定時期が「大正16年」となっているのは、配布直後に昭和に改元されたため。実は12月に大正天皇(たいしょうてんのう)が急逝したため、翌年の博覧会開催は危ぶまれたようである。実際に全国各地で歌舞音曲が中止され、その分昭和3年は「御大典記念(ごたいてんきねん)」と称して博覧会が各地で聞かれた。しかし福岡・博多の財界人たちは、大正13年に準備を始め、既に全国43府県と朝鮮(ちょうせん)・台湾(たいわん)・満州(まんしゅう)などへも参加を呼びかけていたため、博覧会開催を中止することはできなかった。その背景には第一次世界大戦後の不況の打開という大きな課題があった。 博覧会は盛況だったようで、3月25日から5月23日までの60日間に160万余の入場者が会場につめかけた。しかしその華やかさとは裏腹に不況状態はすすみ、時代は「戦時期」へと移っていった。
東亜勧業博覧会の絵葉書
福岡市博物館
戦争と国民―「総力戦」
昭和12年(1937)7月、盧溝橋事件が発生し、日本と中華民国の間で戦争が始まりました。日中戦争は長期化し、さらに昭和16年12月にはアメリカとの戦争に突入します。昭和時代の戦争は、戦争継続を目標に人員、物資を計画的に動員する総力戦でした。多くの男性が兵士として召集される一方、直接戦闘に参加しない銃後の国民は、戦争を支援する体制に組み込まれることになります。銃後の国民には、兵士の送迎や慰問、貯蓄、食糧・資源の増産、防空対策など、多くの役割がありました。
戦時のことば―戦争継続のために
銃後の国民に向けた戦争への協力の呼びかけでは、国債購入、貯蓄、軍人援護、資源供出などのテーマで標語が作られました。ポスターや駅弁掛紙に標語を記す際には、文字だけでなく印象的な図柄が用いられます。
図柄は、前線兵士や兵器、戦争の目標を描くものと、銃後の国民の理想的な姿を描いたものが多くありました。
ポスター
ラジオは速報性のあるメディアとして昭和時代に登場し急速に普及した。戦時期には各地の戦況や敵機襲来の情報を迅速に知る必要性から、ラジオの普及運動が行われた。
弁当の掛紙
昭和15年(1940)は最初の天皇である神武天皇が即位してから2600年目の年とされた。これを記念して、各地で神社の祭典や展覧会、体育大会などが開催された。
春の行楽について注意をうながす言葉が並ぶ。鉄道による行楽は優先すべき物資の輸送をさまたげ、銃後の国民が組織的に行う必要のある防空にも支障をきたすとする。
岡山駅で販売された駅弁のラベル。デザインとして斜めに配置された「東亜新秩序建設」「日満支提携」「堅忍持久」は、日中戦争期に政府が打ち出したスローガン。
福岡大空襲と戦争の終わり
太平洋戦争末期の昭和20年(1945)には、米軍による日本の都市への空襲が本格化します。
福岡大空襲では、6月19日の深夜から翌日の未明にかけて、マリアナ基地から飛来した約220機の爆撃隊が福岡市を襲撃しました。投下された焼夷弾は1358トンに及んだといわれます。『福岡市史』によれば、被災面積は3・78㎢、被災人口は6万599人、死者902人、負傷者1078人、行方不明者244人という甚大な被害でした。ただし、これらは判明しているものだけで、被害はより大きかったと考えられます。
8月14日、日本政府は連合国軍によるポツダム宣言を受諾することを決め、翌日にラジオ放送で国民に知らせました。9月2日には、降伏文書への調印式が行われ、国際的に終戦が確定します。
終戦によって戦時に国外にいた人びとの本国帰還が始まりました。軍人・軍属にあった人びとの帰還は復員と呼ばれ、これ以外の人びとの帰還は引き揚げと呼びます。博多港は引揚援護港に指定され、昭和22年まで、約139万人の復員・引き揚げ者を迎えました。
終戦後国外にいた人びとの内地帰還がはじまった。一般の人の帰還は引揚とよばれる。この証明書は日本人が内地に帰還したことを示すもの。 空襲の被害を示す証明書。町名や隣組の番号、被害にあった人の名前や人数、避難先を書く場所がある。証明書を見せると避難先でも配給を受けることができた。
- 福岡大空襲関連写真
展示資料以外の福岡大空襲関連の画像を集めています
戦後を生きる
戦災からの復興は、罹災地域のがれきの清掃から始まりました。モノ不足によって配給制が続く一方で、物資を高価に売るヤミ市がうまれ、福岡市は取り締まりを行いました。被災した街の復興は昭和21年(1946)1月に福岡市が設置した復興部が新たな都市計画を決定してから本格化しますが、経済的混乱の中で規模を縮小せざるを得なくなりました。人びとは、戦時中から続くモノ不足や戦後の制度の変化に対応しながら、街やくらしの再建をすすめていきました。
アメリカ陸軍および空軍の教育機関に勤務するアメリカ人が撮影した、昭和21(1946)、22年ごろの写真。裏面に「Fukuoka」と撮影者によるメモがあることから、福岡市内の写真と考えられる。詳細な場所は不明であるが、がれきでおおわれた街に立つ大きな建物を撮影している。〔第36回新収蔵品展〕
昭和9年(1934)3月に大濠公園近くに建設された逓信省福岡簡易保険支局は、昭和20年6月の福岡大空襲の際も焼失を逃れた。終戦後は米軍に接収され、陸軍病院として使用された。〔第36回新収蔵品展〕






















































































































