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細川忠興像(細川重賢賛) Portrait of Hosokawa Tadaokiホソカワタダオキゾウ(ホソカワシゲカタサン)

解説

細川忠興〈ほそかわただおき・1563-1645〉の肖像画。忠興は、桃山時代~江戸時代初期の武将・茶人。細川幽斎の長子。織田信長に重用され、信長の子信忠の1字を与えられ忠興と名乗った。天正6年〈1578〉丹後・宮津城に移住、明智光秀のむすめ玉(のちのガラシャ)と結婚。しかし、本能寺の変では、光秀に与せず、信長に弔意を表す意味から髻を切り、以後は豊臣秀吉に従った。秀吉亡き後は、徳川家康に仕え、関ヶ原の軍功によって豊前国が与えられた。元和6年〈1620〉、忠利に家督を譲り、自らは出家剃髪して三斎宗立と号した(58歳)。つねに政局を見るに敏の感性は、政権の主流を見誤らなかった。一方において忠興は、当時屈指の文化人として聞こえた人物で知られる。武家故実に精通、鷹狩・能・和歌・連歌を好み、とくに茶の湯においては、千利休に学び、利休七哲のひとりに数えられている。天正15年〈1587〉10月の北野の大茶会では自身の茶屋を影向の松の根かたに構え、これを松向庵と名付けた。法号「松向寺殿三斎宗立大居士」の所以である。本図は、刀を刀掛に掛けて、その前に正座する忠興を描く。穏やかな表情のなかにも、波乱の時代を賢明に生き抜いた忠興の鋭敏さが活描されている。絵師は不明ながら、細川家に出入りの有能な大和絵師に違いない。上方に法号を1行に謹書するのは、肥後熊本藩主6代宣紀の5男・細川重賢〈ほそかわしげかた・1720-85〉である。兄宗孝(第7代藩主)の養子となって家督を継ぎ、第8代藩主として、以来執政39年の永きにわたって藩政刷新に精励、その治世は宝暦の改革と呼ばれた。細川家先祖の忠興への追慕の念をもって描かせたのがこの画像であった。忠興の画像のなかでも珍しい形式のものとして貴重な存在である。

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2022/10/04