Bringing the Olympics to Tokyo
Hidejiro Nagata’s dream
昭和4(1929)年、国際陸上競技連盟会長ジークフリード・エドストレームが来日し、日本学生競技連盟会長の山本忠興と会見を行い、昭和15(1940)年に開催される第12回オリンピック大会を東京に招致する可能性について意見を交わしました。
Seiichi Kishi’s point of view
岸清一は、大正13(1924)年から、昭和8(1933)年に亡くなるまでIOC委員を務めました。
Jigoro Kano efforts to bring the Olympics to Japan
嘉納治五郎は、総会への出席・演説といった公式の活動だけでなく、IOC委員を招いた食事会への出席など、非公式な場でのロビー活動も数多く行いました。
A secret agreement between Michimasa Soejima and Benito Mussolini.
東京招致を確実にするためには、ローマに辞退してもらう必要があり、その難題に取り組んだのが、伯爵で実業家、貴族院議員の経験もある副島道正でした。
しかし、翌年オスロで行われたIOC総会で、ローマが辞退を表明してもなおローマを支持する声があり、その場での決定は困難だという理由で、第12回大会の開催都市決定は昭和11(1936)年にベルリンで行われる総会まで持ち越されることになりました。
The IOC President comes to Japan
開催地決定が延期されたもう一つの理由として、この時のIOC会長のバイエ・ラツールが、東京での開催に反対していたことがあります。その理由は、日本がIOCに断りなく、直接ローマに辞退を働きかけたことでした。
第十二回オリンピック東京大会組織委員会 編,第十二回オリンピック東京大会組織委員会
本書にある副島の回想によると、ラツールの手紙の内容は、「日本がIOCの幹部に相談なくローマに辞退を直談判したことはスポーツの精神に違反することだが、今後日本がIOCの憲章と精神を遵守するならば、自分は副島のために努力する」といった内容で、オリンピック精神の尊重を条件に東京開催を認める考えを示したものでした。
東京市 編,東京市
本書には、この歓迎を受けたラツールは、「私が横浜に入港した時小学校の児童がオリンピック旗を振って歓迎してくれた。この一事は全日本国民のオリンピック並びにスポーツに対する深い理解を示すものでその点私は十分満足だ」と語ったことが記されています。各種の施設見学や招宴など、多忙なスケジュールで2週間の日本滞在を終えたラツールは、上機嫌で出国しました。
Selecting the host city
嘉納、副島をはじめとするIOC委員の尽力や、東京市、日本政府の活動もあって徐々に東京招致の可能性が高まる中、昭和11(1936)年7月31日、開催都市を決定するIOC総会がベルリンで開かれました。
本ページはダイジェスト版です。ぜひ、オリジナルサイト:https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/15/2.html(国立国会図書館HPへ飛びます)もご覧ください。