Tea Ceremony Utensils
Items used to perform the tea ceremony. In the tearoom, participants appreciate both the function and beauty of these utensils
The implements used in tea ceremony are divided into the following broad categories:
• Ornamental items
The scroll hanging in the alcove
The flower vase in the alcove
• Items used to make the tea
The kettle
The tea bowl
The tea scoop
• Items used for the simple meal before tea
Plates
Bowls
Sake cups
• Washroom utensils
A water bucket
A water ladle
As one can see, a great variety of handcrafted items are used as tea ceremony utensils, and these items are made from all sorts of materials: ceramics, metal, wood, bamboo, lacquer, dyed cloth, paper, etc.
During the Kamakura period (1180-1333) when the Song manner of appreciating tea was introduced to Japan, all sorts of tea implements were also brought over. Tea implements made in China during the Song (960-1279), Yuan (1279-1368), and Ming (1368-1644) dynasties, called Kara-mono (Chinese ware) in tea ceremony circles, are most prized even today.
With the spread of tea ceremony culture in the Muromachi period (1336-1573), kilns like those in Seto and Mino started imitating Chinese tea ceramics and calling what they produced Wa-mono (Japanese ware). In due time, Sen no Rikyu's austere tea culture (wabicha) became the fashion in tea circles, and with this development, tea bowls called Korai-mono (Korean ware), from private kilns on the Korean peninsula, became the main type of tea bowls used in Japan. Separately, Japanese ware tea implements also changed to conform to the aesthetic of austere tea culture, developing in ways unique to Japan.
So that the tea ceremony becomes a heightened aesthetic experience, participants are encouraged not just to use tea implements in the tearoom, but also to appreciate them in their use and for their beauty. Moreover, careful consideration is also given to which tea implements to use together on a particular occasion. The tea master first considers the theme of the tea gathering and selects a particular hanging scroll for the alcove. Then he selects tea implements, tea bowls, a tea scoop, and so on, making sure that they go together in color and artistic design.
Related People, Things and Events
The tea ceremony is an activity where matcha is enjoyed through the Japanese tea culture. It was developed into a composite artform, combining architecture, gardening, shodo (calligraphy), craftsmanship, philosophy, and cooking.
Sen no Rikyu was a tea master from the Azuchi-Momoyama era. He developed and perfected the tradition of Wabi-cha.
An evergreen shrub of the Theaceae family, the leaves of which are processed and brewed for drinking; trade in tea has had a considerable impact on world history; in recent years Japanese green tea has attracted notice
Goods, mainly art pieces like paintings, porcelain, and lacquer ware, brought over from China and other overseas countries
A lacquering technique, representative of Japan, that uses fine particles of gold and silver to decorate lacquerware
The eighth shogun of the Ashikaga Shogunate in the Muromachi period; constructed Ginkaku Temple and was a patron of Higashiyama Culture
Nobunaga Oda was a Busho (military commander) of the Sengoku and Azuchi-momoyama eras. In spite of his aspiration to unify Japan, he took his own life during an attack by his subordinate, Mitsuhide Akechi, while staying at Honnoji Temple.
A warlord of the Azuchi-Momoyama period who rose from lowly origins to overlord of all Japan 1537-1598
One of the most outstanding artists and tea ceremony masters of the Momoyama and early Edo periods (c. 1558 – 1637) who produced masterful calligraphy, lacquerware, and ceramics. As a disciple of two members of the Raku family—Jokei, the second generation, and Donyu, the third generation—Koetsu Honami created numerous and masterful Raku tea bowls and incense containers.
In Japan, bamboo has been venerated as a symbol of vitality since ancient times and has been widely used for tools, decoration, and ornamentation
A group of cultured men in the service of Ashikaga shoguns who practiced art criticism and a wide range of performing arts during the Muromachi period
Treasures collected by the Ashikaga shogunal family over generations, including the collection of the 8th Ashikaga shogun, Yoshimasa Ashikaga
A collection of papers for waka Japanese poems used in poetry gatherings held during the retired Emperor Gotoba’s pilgrimages to Kumano; by extension, superb works of early-Kamakura-period Japanese waka poems and calligraphy
Books
[慈俊] [著],藤原久信, 藤原隆章, 藤原隆昌 畫,三條公忠 [ほか] 詞
西本願寺3世覚如上人の伝記を描いた南北朝時代の絵巻(この国会図書館蔵本は、大正時代に制作された模本)。上人の帰寂(僧侶が死ぬこと)を慕う意味からの書名で、観応二年(1351)の作。詞書は三条公忠ほか、絵は藤原隆昌・隆章の筆。日常生活の描写が随所にみられ、当時の生活を知る資料としても貴重。掲載の場面、覚如上人らが和歌の集まりを催している部屋の隣の厨房の、料理をしている男の横の棚に並べられた茶の道具が注目される。拡大して見ると、明らかに、茶入れ、茶筅、茶椀が見え、禅宗の寺院ではこの頃すでに現在に近い点茶が行われていたことを物語る。
[慈俊] [著],藤原久信, 藤原隆章, 藤原隆昌 畫,三條公忠 [ほか] 詞
茶入れ、茶筅、茶椀などが見える。
刊
足利義政の同朋衆の一人、能阿弥の著と伝えられる『君台観左右帳記』。座敷飾りの秘伝書で、東山御物の基本となる中国絵画、墨跡、漆器、香炉、花瓶、茶壺、茶入などを集大成している。「君台」は将軍の御座所、「左右帳記」は、その飾り方についての左右の侍者の帳記(記録)の意。原本はなく、流布する写本の系統に能阿弥本系と相阿弥(能阿弥の孫)本系がある。掲載の国会図書館本は、文明8年(1476)3月12日付の能阿弥奥書がある群書類従本で、能阿弥系を代表するもの。前半は中国の宋、元時代を中心とする画家約150人をあげて、年代順に上・中・下の三つに分け、字(あざな)や号、出身地、画題を列挙して鑑賞の指針を示している。後半は座敷飾り方や道具類について図解しながら説明する。
相阿弥,写
足利義政に仕えた同朋衆、相阿弥による床飾に関する伝書。相阿弥は能阿弥の孫で、父祖に続いて同朋衆となり、その経験と知識を図解しながらまとめている。足利義尚の本邸(小川御所)の対面所と、足利義政の別荘東山殿(慈照寺)の会所の諸室の絵画・諸器物・文房具などの飾り方を記している。内容的には『君台観左右帳記』と重なる部分が多い。
『利休百会』は、千利休最晩年の天正18年~19年(1590~1591)に行なわれた約百会の茶会記。利休の茶道具の取り合わせを窺い知ることができる。原本は伝わっておらず、本書の信憑性について疑問視する意見もある。
安土桃山時代の茶匠山上宗二の編述した茶湯の伝書。一巻。別名『茶器名物集』とも。天正16~18(1588~1590)頃成立。利休流茶法秘伝書で、茶の湯の歴史から、茶道の心構え、茶器の目利きに至るまで広く述べている。茶道史の基本資料の一つ。掲出本は、続群書類従飲食部所収。天正16年2月27日付で桑山修理大夫宛。書名は『茶器名物集』となっている。
陶齋尚古老人 誌,須原屋市兵衛
出雲松江藩主・松平不昧(陶斎尚古老人)が著した、江戸時代中期の名物茶器図鑑。寛政1年(1789年)から9年間にわたり、全18巻が出版された。中興名物茶入、大名物茶入、後窯国焼、天目茶碗、楽焼茶碗、雑記、拾遺、名物切の8部で構成されており、大名物、名物、中興名物の呼称と格付けが行われている。
高橋義雄 編,宝雲舎
大正10年 (1921)~昭和2年(1927) 刊行。明治~昭和時代の実業家・数寄者、高橋義雄(箒庵)が編纂した、茶道具の名物を集大成した図鑑。全9編11冊。名物の銘の由来や分類、寸法、付属品、伝来、写真など、さまざまな情報が記されている。
永禄年間(1558-69)に、武野紹鴎門下の茶人・真松斎春渓が記したとされる茶書。寛永3年(1626)に初の刊本茶書として出版される。
写
楽家の初代長次郎作の茶碗で、千利休が名作と見立てた「長次郎七種(利休七種)」を解説。図、大きさ、所有者などを記載。
写
写
写
写
写
著者:久田宗全
写
写
写
宮崎幸麿 編,小杉榲邨 閲,青山堂
Related Works
Kakemono (hanging scrolls)
圜悟克勤筆,By Yuanwu Keqin (1063–1135),松平直亮氏寄贈,Gift of Mr. Matsudaira Naoaki,東京国立博物館,Tokyo National Museum
【国宝】 北宋時代(12世紀)。弟子の虎丘紹隆(1077~1136)に与えた墨跡の前半部。伊達政宗(だてまさむね)の所望により春屋宗園(しゅんおくそうおん)と古田織部(ふるたおりべ)が相談し二つに切断し、後半は伊達家に伝えられた。弟子の免許皆伝を証明する印可状とされるが、本来は圜悟の仏法に対する考えを述べた法語と解釈されている。禅宗は座禅を通した体験を重視する仏教の宗派です。日本では禅宗の僧侶の書を墨跡と呼んでいます。この墨跡は、中国の僧侶、圜悟克勤(えんごこくごん)が弟子の虎丘紹隆(くきゅうじょうりゅう)に対し、禅の教えを授けたことを証明するために与えた「印可状」の前半部分です。禅がインドから中国に渡り、宋時代に及んで分派した経緯を述べ、禅の精神を説いています。筆者の圜悟克勤(えんごこくごん)は北宋の徽宗(きそう)皇帝や、南宋の高宗皇帝からあつく敬われた、宋時代を代表する禅僧で、育てた弟子の中には、大慧宗杲(だいえそうこう)や虎丘紹隆(くきゅうじょうりゅう)などの名僧がいます。型にとらわれぬ伸びやかな書きぶりのなかにも、厳格な修行をの末に行き着いた、飾らぬ、枯れた味わいがあります。墨跡としては最も古い部類に属し、筆者の禅僧としての偉大さとあいまって、古くから墨跡の名品とされてきました。禅の思想は茶道とも結びついたことから、墨跡は茶室に掛ける「茶掛け」として欠かせないものとなり、大坂・堺の豪商茶人である谷宗卓(たにそうたく)や、松江藩主で茶人としても名高い松平不昧(まつだいらふまい)が一時は所有するなど、名だたる茶人にも珍重されたのです。桐の筒に入って薩摩の坊津(ぼうのつ)海岸に流れ着いたとの伝承から、「流れ圜悟」(ながれえんご)の異名をもちます。
虚堂智愚筆,By Xutang Zhiyu (1185–1269),松平直亮氏寄贈,Gift of Mr. Matsudaira Naoaki,東京国立博物館,Tokyo National Museum
【国宝】 南宋時代(13世紀)。虚堂智愚が、鎌倉の浄智寺の僧、無象静照(むしょうじょうしょう)に書き与えた法語である。武野紹鴎(たけのじょうおう)の所有を経て、京都の豪商茶人である大文字屋の有に帰したが、寛永14年(1637)、丁稚が蔵に立てこもり、この幅を切り裂いて自害したことから 「破れ虚堂」と称される。 破れ虚堂。何やらただならぬ異名(いみょう)を持つこの書は、虚堂智愚(きどうちぐ)という南宋時代を代表する禅宗の僧が、晩年に筆をふるったものです。日本から禅を学びに来た無象静照(むぞうじょうしょう)という若き弟子のために詠んだ詩で、「あれこれ問うことをやめよ」と弟子に諭(さと)す部分も見られます。 かつて武野紹鷗(たけのじょうおう)や松平不昧(まつだいらふまい)など、名だたる茶人が所蔵し、天下の名物として茶室を飾ってきたこの掛け幅(かけふく)は、その表具を、「織部(おりべ)好み」や「遠州(えんしゅう)好み」などのように、ときとして所蔵者の趣味に合う形式やデザインに改められ、大切に保管されてきました。しかし、予想だにしない出来事も起こるものです。 江戸時代、17世紀前半の寛永(かんえい)年間、当時所有していたのは大文字屋(だいもんじや)という京都の商家でした。ある日、そこに仕えた丁稚(でっち)が蔵に立てこもり自害するという事件がありました。蔵の中にあったこの墨跡は、丁稚によって無残にも切り裂かれ、後に「破れ虚堂」とも呼ばれるようになったのです。 書きぶりは実に個性的です。おどけた雰囲気の文字があるかと思えば、整った見事な形をした文字もあります。字の姿から筆者の人柄を想像してみても楽しいかもしれません。
馮子振(1257~?)筆,By Feng Zizhen (born 1257),松平直亮氏寄贈,Gift of Mr. Matsudaira Naoaki,東京国立博物館,Tokyo National Museum
【国宝】 元時代(14世紀)。馮子振(ふうししん)は官僚として活躍する一方、禅学にも造詣が深く、中峰明本(ちゅうほうみょうほん)、古林清茂(くりんせいむ)ら当時の僧侶とも親交を結びました。本作は、中峰明本のもとで修行をしていた日本からの留学僧、無隠元晦(むいんげんかい)の求めに応じて、馮子振が書き与えた七言絶句の形式をとる三首の法語です。 本作のように、馮子振の書は入元の禅僧に好まれ、日本に少なからずもたらされました。在家の居士の書ではありますが、禅僧の墨蹟のように珍重されてきたのです。本作は著名な大名茶人でもある雲州(うんしゅう)松平家7代の松平治郷(まつだいらはるさと)(不昧)の旧蔵品です。 この書は、馮子振(ふうししん)という人物が、日本の禅宗の僧侶であった無隠元晦(むいんげんかい)のために、七言絶句(しちごんぜっく)の詩を3首つくって書いたものです。左に大きく張り出した横画(よこかく)、長く伸ばしたハネやハライなど、線は鋭く、活き活きとして歯切れのよい筆使いをしており、北宋時代11世紀から12世紀の能書家、黄庭堅(こうていけん)の書に似ているところがあります。文字は余白のメリハリが効いており、実に大胆な形です。 筆者の馮子振は、元の王朝に仕えた官僚で、儒教の経典や歴史に精通し、詩文や書に優れていました。仏教の禅にもよく通じていた馮子振は、出家せず仏教の修行を行う信者として、中峰明本(ちゅうほうみょうほん)や古林清茂(くりんせいむ)などの徳の高い僧侶とも親交を結びました。一方、この書を送られた無隠元晦は、今の福岡県東部から大分県北部に位置した豊前(ぶぜん)出身の禅宗の僧侶です。仏道修行のために元にわたり、中峰明本を師として学びました。15年以上の修行期間を経て日本に帰国したのち、博多や鎌倉、京都などの禅寺(ぜんでら)で住職を務めました。 詩の中では、無隠元晦が中峰明本を師として学んだことや、禅僧として優れていたことを述べています。馮子振は無隠元晦が日本に帰国する際にこの書を送り、日本に持ち帰られたと考えられます。その後、江戸時代には、現在の島根県にあたる松江藩の藩主で、茶人としても名高かった松平不昧(まつだいらふまい)の手にわたり、茶の湯の席に掛ける書として珍重されました。松平不昧の茶道具コレクションの目録にも登場し、その記述の内容から、現在の表装の裂(きれ)や付属の箱などは、不昧が所有していた当時のままであることがわかります。馮子振は出家をしない仏教の信者でありながら、その書は留学した僧侶に好まれて日本にもたらされ、あたかも禅僧があらわした墨蹟のように扱われて、茶の湯の文化のなかで珍重されてきたのです。
宗峰妙超筆,By Shūhō Myōchō,九州国立博物館,Kyushu National Museum
【重要文化財】 鎌倉時代(14世紀)。大徳寺の開祖、大燈国師(だいとうこくし)・宗峰妙超(1282〜1337)の墨蹟。「凩墨蹟」として世に知られている。内容は、宗峰の法祖父に当たる南宋の高僧、虚堂智愚(きどうちぐ)(1185〜1269)の法語を記したもの。ありのままに仏法を体得するのが一番難しい、という趣意のものである。
中峰明本
Zhongfeng Mingben was one of the representative Zen priests of the Yuan Dynasty who originally hailed from Qian Tang in Zhejiang Province in China. Although considered an heir to the teachings of the Reverend Gaofeng Yuanmiao (Jp. Koho Genmyo, 1238-95), Zhongfeng never settled down. Instead, he was a wanderer, sometimes living on a boat, sometimes in a Buddhist hut, calling himself by the pseudonym meaning ‘an illusory resident’. Many Japanese novice priests traveled to Yuan China and they brought back Zhongfeng’s calligraphy. The characteristic style attained by releasing force at the start and end of each brush stroke creates a unique bambooleaf-like impression. This characteristic style made Zhongfeng’s works, often called ‘Zhongfeng’s bamboo leaves’, much sought-after pieces among chanoyu (tea ceremony) devotees in Japan. The calligraphed letter shown here is addressed to a government officer. At the beginning of the letter, Zhongfeng thanks the officer for a gift and then congratulates him upon moving into a new home. The letter goes on to preach the importance of administration without fear or favor, citing the life lived by Pang Jushi of ancient Tang Dynasty. (Pang Jushi was a priest who preferred to live as a layman and is often referred to as the Layman Pang.) Zhongfeng states that politicians should strive to achieve the most difficult tasks, without resorting to support or contributions.
玉室宗珀筆,By Gyokushitsu Sōhaku (1572–1641) ,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。玉室宗珀は江戸初期の臨済僧。春屋宗園に師事し、大徳寺の147世住持となりました。沢庵宗彭や江月宗玩らと親しく、後陽成天皇や加賀・前田家の帰依を受けました。紫衣事件で寛永6年(1629)から3年陸奥国(福島県)棚倉に配流されました。太めの筆を用いて大らかに運筆されています。ルビ:たくあんそうほう、こうげつそうがん、しえ
伝紀貫之筆,Attributed to Ki no Tsurayuki,森田竹華氏寄贈,Gift of Ms. Morita Chikuka,東京国立博物館,Tokyo National Museum
【重要文化財】 平安時代(11世紀)。第三種の筆者は、高野切の三人の筆者の中で一番若い人物だったと推定されている。のびのびとした気持ちのいい筆の動きを見せる。その中でも、「の」や「や」「き」「ゆ」などの文字は、現代の私たちが使うひらがなに似た美しい形である。
伝紀貫之筆,Attributed to Ki no Tsurayuki,浅野長武氏寄贈,Gift of Mr. Asano Nagatake,東京国立博物館,Tokyo National Museum
【重要文化財】 平安時代(11世紀)。江戸時代初期の武将で茶人の佐久間将監実勝(さくましょうげんさねかつ)が、大徳寺龍光院の中に建立した寸松庵に伝来したことから、「寸松庵色紙」と呼ばれる。本作は他所に伝来したものだが、同じ名で呼ばれている。もとは粘葉装+でっちょうそう+の冊子本で、舶載+はくさい+(中国製)の唐紙+からかみ+に『古今和歌集』を散らし書きしている。 もとは『古今和歌集』の冊子本だったのを切り離して掛け軸にしたものです。江戸時代の茶人佐久間将監実勝(1570~1642)が京都・大徳寺の塔頭(たっちゅう)の茶室、寸松庵(すんしょうあん)に所蔵していたことから「寸松庵色紙」の名がつけられました。「継色紙」(つぎしきし)、「升色紙」(ますしきし)とともに「三色紙」と呼ばれて、茶の湯の席の掛物として尊重されてきました。 中国製の唐紙(からかみ)を使っており、白地になにかの文様が刷られていたと思われますが、現在はほとんど見えません。 書かれているのは、古今和歌集の秋の歌です。秋の月 山辺さやかに照らせるは落つる紅葉の数を見よとか(『古今集』巻第五 秋歌下) 美しい紅葉が一面に散っている秋の山を、月の光が照らしている様を詠んだ歌です。 見どころは、瀟洒で美しい仮名でしょう。複数の文字をつなげて書く連綿(れんめん)、一部蛇行しながらも全体としてバランスのとれた文字の散らし方、そして余白の美を味わってください。
伝紀貫之筆,Attributed to Ki no Tsurayuki,九州国立博物館,Kyushu National Museum
【重要文化財】 平安時代(10~11世紀)。平安時代中期の書写になる「継色紙」は、当初は粘葉装の枡形の冊子本であったが、後世その優美な筆跡が愛好され、分割されて古筆切となった。当初の冊子の3頁分を貼り継いで掛幅装とした本作品は、『古今和歌集』巻第17に所収される読み人知らずの1首「我みても久しくなりぬ住江の 岸の姫松いく夜経ぬらん」を、濃い藍と薄い縹の料紙2頁に、連綿を積極的に用いて揮毫する。その書きぶりである「散らし書き」は、行頭を揃えない各行が紙上に揺らいで余白を意味あるものに変え、高い芸術性が見て取れる。また、本作品は、江戸時代前期、後水尾院の上覧に供されて紀貫之筆とのお墨付きを得、京都大工頭・中井家に伝来したことが付属資料から判明する。近世における作品の伝来の姿と古筆尊重の気風が如実に確認でき、歴史的価値も高い。国立博物館として収蔵するに相応しい平安古筆の逸品である。
京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
【重要文化財】 鎌倉時代(13世紀)。後鳥羽天皇(一一八〇~一二三九)の和歌懐紙。熊野三山に参詣の途次、近臣たちと催した和歌会の懐紙は「熊野懐紙」とよばれる。線の強弱、墨の濃淡を駆使し、和様の豊潤さと法性寺流の鋭さをみごと融合させ、自分なりに昇華している。
飛鳥井雅経筆,By Asukai Masatsune (1170–1221),東京国立博物館,Tokyo National Museum
【重要文化財】 鎌倉時代(13世紀)。後鳥羽上皇は廷臣とともに熊野三山に30回以上も御幸し、その道すがら歌会を開催しました。その和歌を清書したものが、熊野懐紙です。これは正治2年(1200)雅経31歳の筆です。雅経は鎌倉初期の公卿で歌人としても有名で、『新古今和歌集』の撰者の一人です。ルビ:ごとばじょうこう、ていしん、くまのさんざん、ごこう、うたかい、せいしょ、くぎょう、しんこきんわかしゅう、せんじゃ
千利休
Sen-no-Rikyu (1522-91) lived during the Muromachi and Momoyama periods and cast the most profound influence on the art of ceremonial tea-making, culminating it into sado, or the Way of Tea. He first studied under Kitamuki Dohchin (1504-62) and later under Takeno Jo-ou (1502-55). His first name was Yoshiro, but it was later changed to Soeki. Rikyu is a pen name. Rikyu served Oda Nobunaga (1534-82), one of the most powerful warlords at the time, as tea master, but after his master’s death, went on to serve his de facto successor, General Toyotomi Hideyoshi (1536-98). Winning deep trust and confidence from this powerful lord, Rikyu advanced in rank and even amassed political influence. Due to reasons not exactly known, he fell out of favor with Hideyoshi and was ordered to commit the ritual suicide of seppuku (belly slashing) in 1591. Rikyu was 71.This letter is addressed to Furuta Oribe (1543-1615). At the time of the Honnoji Revolt (of 1582 in which Nobunaga was assassinated), Oribe was a cavalier fighting on Hideyoshi’s side. Exhibiting prominence in the Battle of Komaki, he was promoted to an official rank and the name of Oribe was bestowed upon him. Strictly speaking, it was after this time that Furuta was called by the name Oribe. It occurred when he was 43 and Rikyu, 64. The letter reports that Rikyu has handed a tea urn to Oribe’s courier. He then says that since Oribe is getting a new tea urn, he may not regret giving away one of the larger urns in his collection. From the tone of this letter, it is not clear if Rikyu is joking or is indeed asking for a gift of a tea urn. Tea utensils were of great concern to tea practitioners.
古田織部
Warrior and tea master of the Momoyama and Edo periods Furuta Oribe (1544-1615) was one of Sen-no-Rikyu’s (1522-91) senior disciples and was also the originator of the Oribe School in the art of ceremonial tea. He was born in Mino Province and was first named Shigeteru (also Shibenari). In 1585, he was given the post of Director of Oribe and, thereafter, began to use this as his name. With his father, Shigesada, Furuta Oribe served powerful feudal lords Oda Nobunaga and Toyotomi Hideyoshi and cultivated friendships with many daimyo (military patrons; landed general) and other influential people, as well as wealthy merchants. After the Battle of Sekigahara, he joined the Tokugawa faction. His fame was firmly established when in 1610 he instructed the second Tokugawa Shogun, Hidetada, in the method of preparing tea using a classical daisu, or a four-legged table on which to place the tea paraphernalia. However, during the Summer Campaign against Osaka Castle, he was sued for secretly contacting Tokugawa’s rival, the Toyotomi clan, and thus was ordered to commit suicide.The upper left part of this letter has worn away, thus eliminating the name of the addressee. From the content, however, one can see it is a thank-you letter for the full-length garment (the predecessor of the modern-day kimono) that he had received as a year-end gift. As it is signed “Shigeteru,” Oribe’s new name after 1588, it must have been written after he turned 44. However, at the end of the letter is written an apology: “With a sudden visitor, I have no time to write the letter myself.” So this is clearly written by a secretary, but it is still a valuable piece of calligraphy from the Middle Ages.Warrior and tea master of the Momoyama and Edo periods Furuta Oribe (1544-1615) was one of Sen-no-Rikyu’s (1522-91) senior disciples and was also the originator of the Oribe School in the art of ceremonial tea. He was born in Mino Province and was first named Shigeteru (also Shibenari). In 1585, he was given the post of Director of Oribe and, thereafter, began to use this as his name. With his father, Shigesada, Furuta Oribe served powerful feudal lords Oda Nobunaga and Toyotomi Hideyoshi and cultivated friendships with many daimyo (military patrons; landed general) and other influential people, as well as wealthy merchants. After the Battle of Sekigahara, he joined the Tokugawa faction. His fame was firmly established when in 1610 he instructed the second Tokugawa Shogun, Hidetada, in the method of preparing tea using a classical daisu, or a four-legged table on which to place the tea paraphernalia. However, during the Summer Campaign against Osaka Castle, he was sued for secretly contacting Tokugawa’s rival, the Toyotomi clan, and thus was ordered to commit suicide.This letter is addressed to “Haukon,” short for “Hashiba Ukon.” When one searches for contemporaries of Furuta Oribe with the family name and self-appointed name written here, one comes across Mori Tadamasa (1570-1634). Tadamasa was the son of Mori Yoshinari (1523-70), a warrior loyal to Oda Nobunaga and the younger brother of Mori Ranmaru (1565-82). He worked under Toyotomi Hideyoshi and held a 70,000-koku (old unit for counting bales of rice; one koku equals approximately 5 bushels) stipend, including a Mino gold mine. He was given an official title in 1585 and started to call himself Ukon-Dayu. He was further promoted and was allowed to use the family name of Hashiba. After Hideyoshi passed away, he served both Ieyasu and his son, Hidetada, and became Lord of Tsuyama Castle in Mimasaka (Okayama Prefecture). This letter concerns the details of a chaire tea caddy, which Tadamasa had shown Oribe, and notes that the lid and silk-and-brocade pouch (for storing the chaire) are just fine, but the purse-chain should be replaced. The lacquered chaire seems to be damaged, which Oribe suggests should be mended by master tea-ware craftsman Fujishige Togen. He also suggests that the addressee consult with Waku Zean (Wakuze Hanzaemon; ?-1638) for the use of a lacquered tray to carry the chaire. Zean was the son of Waku Soze (1535-1615), one of Hideyoshi’s secretaries, who served Hideyoshi, his heir, Hideyori, and General Date Masamune. In the world of calligraphy, he is known to have followed the Sanmyaku-In School, founded by Konoe Nobutada. This letter is an important document that helps one to understand how tea utensils were regarded in those days. As with the previous letter, this one was also written by Furuta Oribe’s secretary. Only the signature, “Shigeteru,” was actually written by Oribe.
松平不昧
Matsudaira Fumai (1751-1818) was a daimyo (feudal lord) and tea devotee of the latter part of the Edo Period. He served as the 17th Lord of Matsue Castle in Izumo Province. Originally named Harutaka, he later changed his name to Harusato but went by the artistic pseudonym of Fumai. Harutaka was born in Edo and came of age at 14. He was made a chamberlain and was later given a fief in Matsue Province (1767), thereby changing his name to “Harusato.” His reforms of the troubled local government finances took 20 years to bear fruit. Thanks to his successful policies, Matsudai Fumai was hailed as one of the “Four Best Daimyo” of the era, along with Lord Matsudaira Rakuoh (real name was Sadanobu, 1758-1829) of Shirakawa, Shimazu Eioh (real name:Shigehide, 1745-1833) of Satsuma, and Arima Gigen (real name: Yorinaga, 1822-1846) of Kurume. Fumai was also artistically inclined and managed to develop his own Daimyo Tea style after years of training in the Enshu School, Sansai School (originated by Hosokawa Tadaoki) and Sekishu School (patterned after Katagiri Teisho, the Lord of Iwami).Fumai’s collection of tea utensils was a coveted prize, which he cataloged in detail in the Unshu Kuracho (lit. “Lord of Izumo Inventory.” “Unshu” is an alias for Izumo Province.) The highly-prized collection is a testimony to Fumai’s connoisseurship in chanoyu, or ceremonial tea. In calligraphy, Fumai’s style is based on Kobori Enshu’s modified Teika School, though it also possesses unique features. The exhibit entitled “Tea Party Notes” is certified to be Fumai’s authentic brushwork as is obvious from the characteristic writing style. Perhaps he noted down the utensils used at a tea party.
Kama (kettles) and furo (portable braziers)
芦屋,Ashiya ware,東京国立博物館,Tokyo National Museum
【重要文化財】 室町時代(15世紀)。口つくりは繰口(くりぐち)、肩に紐線(ちゅうせん)1条をめぐらす。胴には州浜(すはま)に屈曲の多い枝ぶりの松樹を繊細な調子で鋳出す。真形(しんなり)の端正な姿、鯰肌(なまずはだ)ともいわれる光沢のある茶褐色の肌あい、勇勁な鬼面鐶付(きめんかんつき)など芦屋釜の特色をよく示す、わが国茶の湯釜の代表作の一つである。 これは茶道(さどう)Tea ceremonyで使われる、湯を沸かす鉄製の釜です。全体はふっくらと丸い形です。現在は胴部の下が割れたような形をしていますが、もともとはそのあたりに、帽子の「つば」のような出っ張りがぐるりと回っており、さらに底へと続いていました。今われわれが見ている少し小さい底は、のちの時代に補われたものです。二か所には獣(けもの)の顔をかたどった突起があり、持ち上げるためのリングを通す穴が開いています。胴部には砂浜に生える松の木を表しています。表面の一部にみられる、つややかな光沢は、ナマズの肌に例えられることもあります。素直な丸い形、ナマズのような肌つや、浜松を表すなど、現在の福岡県北部の芦屋(あしや)地方で作られた釜の特色をよく示しています。「真形」(しんなり)とは、茶釜本来の自然な形という意味です。特に芦屋地方で作られた茶釜は、一級のブランド品として好まれました。この地域ではもともと、金属を熱して溶かし、鋳型(いがた)に流し込み形を作る、鋳造(ちゅうぞう)で、さまざまな道具を作ってきた歴史があり、優れた製品を作る技術が発達していたのです。 日本では鎌倉時代13世紀、栄西(ようさい)という僧侶が、中国で仏教の宗派の一つである禅宗を学んださいに、お茶の実を持ち帰って以降、茶の栽培が始まり、貴族や僧侶の間で、薬として茶を飲むことが流行しました。やがて、1杯の茶を入れるために使うさまざまな道具や空間、そしてそれらを使って茶を飲む、こまごまとした作法が整えられていきました。たんに茶を飲むのではなく、文化的な営みとして修養する「茶道」の考え方が形成され、現代に続いています。茶道は各時代の文化人や権力者たちに支持され、その周辺では、様々な美術工芸品や、芸術文化が育(はぐく)まれました。茶釜も他の茶道具と同様に、使い勝手の良さだけでなく、形や質感や文様に美意識が注がれました。
芦屋,Ashiya ware,松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
室町時代(15世紀)。筑前国芦屋(現福岡県遠賀郡(おんがぐん))では、古くから鉄や銅などを材料とした仏具や生活用具などの金属器が製作されていた。特に鉄を鋳造した茶釜は名品として知られ、中世では「芦屋釜」が茶釜の一大ブランドとなって、寺院や有力大名の間で珍重された。 これは茶道(さどう)Tea ceremonyで使われる、湯を沸かす鉄製の釜です。全体はふっくらと丸い形です。胴部のやや下には、帽子の「つば」のような出っ張りbrimがぐるりと回っています。これは釜の下に置く炉の口に掛けるためのものです。肩の二か所には獣(けもの)の顔をかたどった突起があり、持ち上げるための鐶(かん)を通す穴が開いています。口から胴部にかけて一面に突起をあらわし、雄大な松の木と葉を描いています。素直な丸い形、つば状の凸帯(とったい)、豊かな文様表現など、現在の福岡県北部の芦屋(あしや)地域で作られた茶釜の特色をよく示しています。芦屋製の茶釜は、一級のブランド品として好まれました。この地域ではもともと、金属を熱して溶かし、鋳型(いがた)に流し込み形を作る、鋳造(ちゅうぞう)で、さまざまな道具を作ってきた歴史があり、優れた製品を作る技術が発達していたのです。 日本では鎌倉時代13世紀、中国で仏教の宗派の一つである禅宗を学んだ僧侶が、お茶の実を持ち帰って以降、茶の栽培が始まり、貴族や僧侶の間で、薬として茶を飲むことが流行しました。やがて、1杯の茶を入れるために使うさまざまな道具や空間、そしてそれらを使って茶を飲む、細かな作法が整えられていきました。たんに茶を飲むのではなく、文化的な行為として修養する「茶道」の考え方が形成され、現代に続いています。茶道は各時代の文化人や権力者たちを魅了し、その周辺では、様々な美術工芸品や、芸術文化が誕生しました。茶釜も他の茶道具と同様に、湯を沸かす道具としてだけではなく、形や質感や文様に美意識が注がれました。
芦屋,Ashiya ware,東京国立博物館,Tokyo National Museum
室町時代(15~16世紀)。胴の表裏に一羽ずつ烏(からす)と思われる鳥を大胆に表している。芦屋釜としては類例が無い文様と構図である。武野紹鴎(たけのじょうおう)の所持と伝え、尾張徳川家に伝来した。「濡烏」の銘があるが、炉に掛けると烏が艶をともなって浮かび上がって見えるところからの命名であろう。
西村道仁,坂本五郎氏寄贈,九州国立博物館
室町時代後期(16世紀)。作者の西村道仁(にしむらどうにん)は、16世紀後半~17世紀初期にかけて活躍した釜師と考えられている。京都三条釜座に住み、織田信長や武野紹鴎の釜師であったと伝わる。釜以外にも、文禄2年(1593)銘の山形県羽黒山の擬宝珠、慶長11年銘の京都妙蓮寺の灯籠などが残っている。
名越浄味(初代),坂本五郎氏寄贈,九州国立博物館
安土桃山時代(16世紀後半)。
伝辻与次郎作,Attributed to Tsuji Yojirō,山崎勝氏寄贈,Gift of Mr. Yamazaki Masaru,東京国立博物館,Tokyo National Museum
安土桃山時代(16~17世紀)。
広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。胴の八面のうち六面に瀟湘八景(しょうしょうはっけい)のうちの六景を、残りの二面にその名を鋳出(いだ)している。文様表現は変化に富み、技巧的である。京の釜師大西家十代の浄雪(じょうせつ)(1776~1852)が芦屋(あしや)古作と極めているが、京釜は芦屋釜を写しているところから京釜の可能性も考えられる。
大西浄清,坂本五郎氏寄贈,九州国立博物館
江戸時代前期(17世紀)。
大西定林作,By Ōnishi Jōrin (died 1727),東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。作者とされる大西定林は形や意匠に工夫を凝らす京都の釜師の一派・大西派の流れをくむ。この釜は肩に井桁に組んだ桟をわたすことから「井桁釜」の名があり、桟の交差する2ヶ所に目を覆う猿と口を押さえる猿、蓋のつまみに耳をふさぐ猿を鋳出して三猿を構成する。るび おおにしじょうりん さん(酒井元樹木氏執筆)
宮崎寒雉,坂本五郎氏寄贈,九州国立博物館
江戸時代中期(18世紀)。
大西浄雪,坂本五郎氏寄贈,九州国立博物館
江戸時代後期(19世紀)。
九州国立博物館,Kyushu National Museum
室町時代(15世紀)。筑前芦屋(現 福岡県遠賀郡芦屋町)で制作された霰地真形釜を風炉に改作したもの。後代に釜底が破れて底が付け替えられた後、風炉として底部に如意頭形の脚を3つ設け、更に胴の上部を意図的に打ち欠いた欠風炉(かけふろ)の姿をとる。胴の付け根から伸びる羽は錣羽(しころば)で、羽先を玉縁状に仕上げる。太い真鍮鐶を通した左右の鐶付は大ぶりで、喉や顎先が厳つい鬼面をなし、大きく打ち返した鼻先や盛り上がった眉間や目と相まって、非常に雄勁である。鬼面の鐶付や胴部に巡らした羽からみて、制作当初は芦屋釜のなかで最も基本的な形である真形釜であったことは確実である。なお、肩あたりの割れ口で測る胴部断面の厚みは、最も薄い部分で2.3mmしかなく、大型の釜としては驚異的な薄さを誇る。
森川富美子氏寄贈,Gift of Ms. Morikawa Fumiko,東京国立博物館,Tokyo National Museum
安土桃山時代・文禄2年(1593)。風炉は中に炭を入れて、茶釜を上にのせて湯を沸かすための炉。鉄の鋳製で、前面に格狭間(こうざま)形の火口、背面に丸形の風口を設け、口の立ちがりに梅唐草文を透かす。胴に「文禄弐年癸巳衡梅禅院」の鋳出銘がある。衡梅院(こうばいいん)は京都・妙心寺の塔頭(たっちゅう)である。
辻与次郎,坂本五郎氏寄贈,九州国立博物館
室町時代後半(16世紀)。
坂本五郎氏寄贈,九州国立博物館
安土桃山時代(16世紀後半)。
坂本五郎氏寄贈,九州国立博物館
江戸時代前期(17世紀)。
大西浄清,坂本五郎氏寄贈,九州国立博物館
江戸時代中期(18世紀)。
Chaire (tea caddies)
松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
南宋~元時代(13世紀)。茶人片桐石州から九州の有力大名松浦鎮信に伝来した茶入。「文琳」とは林檎を意味します。付属の若狭盆の箱には「ウチフンリンノホン」と書かれた貼紙があり、千利休の書と伝わります。近代数寄者の一人、実業家松永安左エ門(耳庵)によって寄贈されました。
原田吉蔵氏寄贈,Gift of Mr. Harada Kichizō,東京国立博物館,Tokyo National Museum
南宋~元時代(13世紀)。かつて上総大多喜藩主松平家に伝来した唐物茶入。文政12年(1829)の江戸大火で被災し、大破したが、のちに漆で忠実に復元がなされた。そうした罹災、復元の詳細を含めかつての伝来のlことなどが、付属する箱に記されている。(20171205_平企)
[Shimamono] type,横河民輔氏寄贈,Gift of Dr. Yokogawa Tamisuke,東京国立博物館,Tokyo National Museum
13~14世紀。唐物茶入に対し、耳が付いた一風変わった姿の一群は「島物」と呼ばれて区別される。おそらく生産地は中国南部と考えられるが、唐物茶入に同じく土や釉、姿にそれぞれ違いがあって個性豊かである。この作品は左右の耳の付け方が異なっていて面白い。横河民輔寄贈品。
瀬戸,Seto ware,東京国立博物館,Tokyo National Museum
室町時代(16世紀)。球体を天地から押さえつけたような形で、このように小さなものを内海茶入という。祖母懐土を見事な轆轤で成形し、姿の美しさでは唐物茶入と互角と言える。全体に金気の強い赭褐色の釉はやや光沢があり品位を高めている。室町末期16世紀の作と推測される。(ルビ:ないかい、そぼかい、ろくろ)
Katatsuki Tea Container, named "Muichibutsu",木村定三コレクション / Kimura Teizo Collection
備前,Bizen ware,東京国立博物館,Tokyo National Museum
安土桃山~江戸時代(16~17世紀)。備前の茶入は天正年間(1573~92)頃から、茶会記に登場するようになります。本作のような、平らな底から真っすぐに立ち上がり、肩が短く横に衝く筒形のものは、慶長年間(1596~1615)に作られたとみられ、同形のもので古田織部が所持した備前茶入「さび助」がよく知られます。
唐津,Karatsu ware,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
安土桃山~江戸時代(16~17世紀)。東の美濃に対して西の雄が唐津焼であり、ともに茶陶に優れた作品が多く、茶碗や懐石具は特に高い評価を受けている。この作品は唐津焼には珍しい茶入。唐物茶入を最高に位置づけた茶入にあって、胴に銹絵で竹文を描き、歪んだ造形をとるのは桃山様式ならではのもの。(2003/12/02_h11)
瀬戸,Seto ware,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。大海よりも小ぶりな内海(ないかい)を思わせる形の茶入。胴には胴紐と呼ばれる沈線をめぐらせる。腰から底部を除いて鉄釉を掛け、その上に灰釉を随所に施して、それが景色となっている。銘の箱書は小堀遠州の三男小堀権十郎政伊(ごんじゅうろうまさただ)によるものとされる。
瀬戸,Seto ware,塩原千代氏寄贈,Gift of Mrs. Shiobara Chiyo,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。小堀遠州(こぼりえんしゅう)が八条宮智仁親王(はちじょうのみやともひとしんのう)より拝領したと伝えられ、瀬戸茶入面取手(めんとりで)の本歌とされる茶入。もとは注口のついた水滴形の注口を外して現在の形に仕立てられたも の。伏見屋敷の茶室転合庵(てんごうあん)に付属し伝世したが、その後離れ、明治に再び転合庵と一緒になった。戦後、茶室とともに当館に寄贈された。※伊藤嘉章氏執筆 茶入とは、抹茶を入れる容器で、お茶の席でもっとも重要とされる道具です。 この茶入は、江戸時代の大名茶人、小堀遠州(こぼりえんしゅう)が八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう)から拝領したと伝えられるものです。もとは注ぎ口のある水滴(すいてき)の形だったのを、遠州が注ぎ口をはずして今の形に仕立て直したといわれ、両肩に穴のあいた三角の耳をもつ、珍しい形の茶入です。「於大名(おだいみょう)」とは、大名は耳が大きいほうがよい、といわれることからついた銘と伝えられます。たっぷりとした量感と、茶色がかった黒い釉薬の色が見どころでしょう。 遠州はこの茶入を拝領した際に、伏見の屋敷で茶席を設けました。そのときに使われたのが、当館の庭園に移築されている茶室・転合庵(てんごうあん)と伝えられています。そのため、この茶入れは転合庵の銘ももちます。茶入於大名と茶室転合庵は、その後別々に所蔵され、離れ離れになりましたが、明治に再び一緒になり、昭和38年、ともに東京国立博物館に寄贈され、現在に至ります。
薩摩,Satsuma ware,松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。薩摩焼を代表する文琳形茶入として名高い作品。「望月」の銘のとおり、その円満な形は特に印象的で、独特の黒胎を素地とし、つやつやとした漆黒釉を地釉に、肩の部分に白い藁灰釉をさらっと施しています。この施釉法が薩摩焼の特色ある景色づくりとなりました。 茶入とは、抹茶を入れる容器で、お茶の席でもっとも重要とされる道具です。茶入にはいくつか形のパターンがあり、それぞれに名前がつけられています。丸い形をしたこのような茶入のことを文琳(ぶんりん)と呼びます。文琳とはリンゴのことで、丸々とした形からついた名前です。 銘の望月とは満月のこと。真ん丸な形から連想して、あるいは茶入れの下のほうに2か所ある、釉薬(うわぐすり)がかかっていない丸い部分を指して、銘が付けられたのでしょう。この小さな丸は、釉薬をかけたとき、茶入れを持つ手が触れていた部分に釉薬がかからず、素地(きじ)の部分が丸く残ったものです。 この茶入れは薩摩地方、現在の鹿児島で焼かれたやきもので、黒い素地に、上から黒い釉薬をかけています。2回目にかけられた釉薬が厚く垂れているのが、印象的です。茶入れの肩の部分には、焼くと白くなる釉薬が散らされています。釉薬の流れや色の変化が様々な表情を見せます。 この作品には、仕覆(しふく)という、茶入を入れておくための袋が一緒に伝わっています。仕覆は一つの茶入に一つだけとは限らず、茶人の好みに合わせたり、貴重な裂(きれ)をいただいたりしたときなどに新しく仕立てられます。茶会に合わせて、着せ替えて用いられました。
九州国立博物館,Kyushu National Museum
江戸時代(17世紀)。
仁清,Studio of Ninsei,横河民輔氏寄贈,Gift of Dr. Yokogawa Tamisuke,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。
虫明,Mushiage ware,横河民輔氏寄贈,Gift of Dr. Yokogawa Tamisuke,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(19世紀)。
Usuchaki (tea caddies for weak tea)
広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
安土桃山~江戸時代(16~17世紀)。黒漆塗の中棗(ちゅうなつめ)で、蓋裏に千利休の花押がある。黒漆は中の鉄分が酸化して褐色化しており、相当の使用を経たものと想像される。中箱に山田宗徧(やまだそうへん)が、利休所持の町棗(まちなつめ)と箱書しており、制作当初は市場で流通していた、消耗品として量産された棗とも考えられる。
広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。堂々とした黒漆塗の大棗で、底裏に朱漆で千宗旦の号を記す。蓋裏には、宗旦参禅の師である清巌宗渭が、宗旦のもとめに応じて「来道人」の銘を授ける旨を書き付けている。古筆了延の極書とともに納める内箱には、表千家8世啐啄斎の箱書がある。(ルビ:せんそうたん せいがんそうい そったく)(130226_h04)
千宗旦在判,松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。松材から挽き出した棗で、全体に透漆を塗って粗い木目を見せる。蓋裏に千利休の孫宗旦が、「道安好」と記している。また、内箱に表千家初代江岑宗左(こうしんそうさ)の極めが、外箱に表千家九代了々斎(りょうりょうさい)の箱書きがある。錚々たる人びとの手を経て伝わった茶道具の名品である。
京焼・御室,Kyoto (Omuro) ware,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。御室焼は、京都御室の仁和寺門前に開かれた京焼の窯の一つ。その成立にあたり中心にあったのは陶工の野々村清右衛門、仁清その人である。本作品は無銘だが、薄づくりで端正な棗形に、堂上好みの品のある七宝繋ぎが表わされ、高度な技に裏付けられた優品である。
広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。桃山時代から江戸時代初期にかけて、京都の無名の工人たちによって作られた、いわゆる嵯峨棗(さがなつめ)を代表する作品。器表全体にモチーフを巧みに配し、文様が細部にとらわれることなくおおらかに表現されている。量産品ゆえの素朴な趣が、かえって茶人たちに高く評価された。 これはお茶をたてる際に抹茶を入れるための容器です。ナツメの実に形が似ているところから、棗(なつめ)と呼ばれます。一本の枝垂桜の枝を八方に垂らして、文様が器の表面全体に自然に繋がるようにデザインされています。 いわゆる「嵯峨棗」の典型的な作品で、嵯峨棗とは、安土桃山時代から江戸時代初期の頃、京都の無名の工人達によって量産されたものといいます。桜や柳、紅葉などの文様が、細部にとらわれず大らかに描かれているのが、その特徴です。またこの棗のように、一本の立木で表面を覆うようなデザインも大きな見所となっています。注文を受けて制作される高級品ではなく、量産され、商品として市場に流通していたとみられますが、茶人達はその素朴な姿に趣を見出し、かえって評価したのです。 花の部分は漆で少し盛り上げた上に金粉を蒔き、葉には銀粉を交えるなど、技法的に変化をつけているところが、嵯峨棗には珍しい表現です。
中村宗哲 NAKAMURA Sotetsu,Tea caddy, Sen no Sotan-type black lacquer,lacquer on wood,木村定三コレクション / Kimura Teizo Collection
京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
<p>These containers, which hold powdered green tea used in the tea ceremony, are made from paper coated with lacquer, a technique called ikkanbari. Even their pouches are made from paper instead of silk. They bear the cipher of the famous daimyo lord and tea master Matsudaira Fumai (1751–1818).</p>
京都国立博物館 Kyoto National Museum
京都国立博物館 Kyoto National Museum
鳥居荘祝・三木玉真,Torii Soshuku and Miki Gyokushin,京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
鳥居荘祝・江馬長閑,Torii Soshuku and Ema Chokan,京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
広田松繁氏寄贈,東京国立博物館,Tokyo National Museum
広田松繁氏寄贈,東京国立博物館,Tokyo National Museum
Chawan (tea bowls) (China)
建窯,Jian ware
The term tenmoku
九州国立博物館,Kyushu National Museum
【重要文化財】 南宋時代(12〜13世紀)。中国南部の窯(建窯)で作られた天目茶碗。高温の窯の中できわめて稀に化学変化をおこし、器の表面にあたかも油滴が飛び散ったような模様を作り出すので、その名がある。漆黒の底部から徐々に青みを帯びて縁にいたる色の変化が絶妙であり、これほど美しい油滴天目茶碗は大変貴重である。
吉州窯,Jizhou ware
Tenmoku tea bowls of the Jizhou kilns in Jiangxi Province are known for its fine
中国・吉州窯,Jizhou ware, China,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
南宋時代(12~13世紀)。日本ではこうした黒釉の器を「天目」と呼びます。かつて、現在の浙江省にある天目山に学んだ日本の禅僧が茶碗を持ち帰ったといわれることにちなみます。江西省にある吉州窯も黒釉碗の生産で知られ、梅花文や文字文、木葉文などをあらわした製品が特徴です。
中国・建窯,Jian ware, China,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
南宋時代(12~13世紀)。漆黒の釉の上にあらわれた銀色の細い線条がウサギの毛のように見えることから中国では兎毫盞(とごうさん)といい、わが国ではこれを穀物の穂の細い毛に見立てて禾目天目とよんでいる。喫茶用の茶碗を大量に焼造した福建省の建窯の代表的な製品である。(170613_h04)【東洋館用(黒釉兎毫斑)】黒釉碗は宋から金時代にかけて、茶飲の流行とともに中国の南北各地に生産が広がりました。釉中に細い線が幾筋もあらわれていることから、中国では兎の毛にたとえて「兎毫盞」と呼びます。この碗は福建省の建窯で作られたもので、日本にも数多く将来されました。これは茶を飲むための碗です。黒地に茶褐色の細い線が無数に流れているのを、稲穂の先にある毛に見立てて禾目天目(のぎめてんもく)と呼んでいます。中国では、この文様をウサギの毛並に見立てて、兎毫盞(とごうさん)と呼びました。天目とは、中国浙江省(せっこうしょう)と安徽省(あんきしょう)の境にある天目山から付けられた名前です。当地の禅寺で使用されていた茶碗を、鎌倉時代に日本人留学僧が持ち帰ったことによるといわれています。黒い釉薬、すり鉢のような形、茶碗の縁を内側に一度絞ってわずかに外に反る鼈口(すっぽんぐち)が一般的な天目茶碗の特徴です。鎌倉時代、日本にはたくさんの天目茶碗が輸入されました。よほど日本人の好みにかなったのでしょうか、室町将軍家では曜変(ようへん)、油滴(ゆてき)、禾目など細かく分類され、格付けまで行われました。そして、これらの茶碗は現代まで伝えられ、国宝や重文に指定されているものもあります。しかし、本家の中国では黒い茶碗はすでに13世紀にすたれ、その後は日本からの求めがあると、使い古しのアンティークを集めて輸出をしていたようです。日本人が愛する天目茶碗の魅力はなんといっても光の加減で表情が変わること。本来は手に取って角度を変え、じっくりと眺めたいところですが、それはかないません。展示室では上下左右に見る角度を変えて、その表情をお楽しみください。
中国・吉州窯,Jizhou ware, China,横河民輔氏寄贈,Gift of Dr. Yokogawa Tamisuke,東京国立博物館,Tokyo National Museum
南宋時代(12~13世紀)。現在の江西省にある吉州窯は、建窯と並び、茶碗の産地として知られています。黒褐釉の上に黄白色の釉をふり掛けた釉調が、鼈甲すなわちタイマイの甲羅に似ているところから、玳玻天目ともよばれます。見込みには規則的な点斑文があらわされています。
吉州窯,Ji-zhou Ware
南宋時代(12~13世紀)。黒い鉄釉の地に飴色の斑文が生じた外側面の様子が、玳瑁(たいまい)の甲羅である鼈甲(べっこう)の模様に似ていることから「玳皮釉」と呼ばれる。内面は黒釉を掛けた後、想像上の鳥である「鸞」や梅花、蝶の形に切った型紙を置き、その上から白濁する釉薬を掛け、型紙を外して焼成している。日本へは南北朝時代(14世紀)には請来され、「鼈盞(さん)」や「玳皮盞」と呼ばれ、茶碗として珍重されてきた。この碗も江戸期の木箱に納まる。
広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
元~明時代(14~15世紀)。灰被天目とは、鉄釉のうえに灰釉を二重がけしたもので、灰を被ったような釉調からこのように呼ばれます。曜変や油滴、兎毫のような目を引く文様はありませんが、よく見るといぶし銀のように釉色が変化しています。日本では侘茶にかなう器として珍重されました。 抹茶を点(た)てるときに使われた茶碗です。 素地(きじ)の上に二種類の釉(うわぐすり)をかけて焼き上げた様子が灰を被ったように見えることから、灰被(はいかつぎ)と呼ばれます。天目(てんもく)という呼び名は、かつて中国浙江省(せっこうしょう)北部の天目山に留学した日本の僧侶が、この地で使用されていた茶碗を持ち帰ったと伝わることによるといわれています。 今日、日本に伝わる天目の種類では、南宋時代に現在の福建省にあった窯、建窯(けんよう)で焼かれた「曜変(ようへん)」や「油滴(ゆてき)」などの釉の文様がきらびやかなものや、江西省にあった窯、吉州窯(きっしゅうよう)で焼かれた「木葉(このは)天目」や「鸞(らん)天目」など直接それとわかるような明確なモチーフの文様を表した華やかなものが有名です。一方、この灰被天目は元時代から明時代にかけて福建で広く焼かれていたもので、かつて足利将軍家では用のないものとして低く評価されていましたが、安土桃山時代になって次第に簡素さを重視する侘(わび)茶が盛んになると、武将や茶人のあいだで、大切にされるようになりました。 作品を見てみましょう。黒い釉薬の上に、艶のない細かな灰色の斑(まだら)模様が独特の表情を作っています。釉薬のかかりは薄く、素地にろくろの跡が見えています。天目と呼ばれる茶碗のなかには、口当たりを良くするために縁を内側に一度絞って外に反らせる鼈口(すっぽんぐち)が作られたものがありますが、この作品の鼈口はやや崩れて浅くなっています。内側は広くて深く、抹茶を点てやすい形です。 黒い茶碗に抹茶の濃い緑。色の対比を想像しながら見てはいかがでしょう。
Chawan (Korean Peninsula)
松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
朝鮮時代(16世紀)。この茶碗は、茶の湯でお茶をいただくのに使われたものです。ゆったりとおおらかでやさしいかたち、ほんのり赤みを帯びたやわらかい枇杷色(びわいろ)。鮮やかな緑の茶がたてられたさま、そしてその茶碗が手の中に納まったさまを想像してみてください。それだけで心おだやかになれそうな茶碗です。実はこの手の茶碗は、朝鮮半島で生活の器としてたくさんつくられていたものです。素朴な風情が、戦国の武将や利休をはじめとする茶人の美意識にかない、井戸茶碗と呼ばれて茶の湯の席で使われるようになりました。なかでも、この茶碗のように口径がおよそ15センチを超える大きなものは、大井戸茶碗とよばれ、高く評価されました。茶碗の底の高台(こうだい)と呼ばれる部分が、ぐっと高くなっていて、その周囲には釉薬の縮れによる梅花皮(かいらぎ)と呼ばれる白いぶつぶつの文様ができています。ここが、井戸茶碗の見どころとされます。有楽井戸という銘は、織田信長の弟の有楽斎(うらくさい)が所持していたことにちなんでつけられました。なんと、江戸時代の豪商紀伊国屋文左衛門が所有していたこともあります。のち、明治期を代表する茶人、松永耳庵(まつながじあん)の所有となり、耳庵から当館に寄贈されました。高麗茶碗の雄、大井戸の名碗として知られる有楽井戸。枇杷色の釉、裾に生じた梅花皮、竹節状の高台といった井戸特有の表情を見せつつ、穏やかで気品すら感じさせる点がこの茶碗の魅力。織田有楽斎の後、様々な手を経て、関西を代表する茶人藤田香雪が所持しました。
Koido type, Korea,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
朝鮮時代(16世紀)。大井戸に比べ、小ぶりな碗を「小(古)井戸」と呼びます。高台は低めで、直線的に立ち上がった碗形で、削りはなめらかに整えられています。よく溶けて美しい枇杷(びわ)色を帯びた釉のなかにはところどころ青みがかったところがあり、独特の景色を生んでいます。
広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
朝鮮時代(16世紀)。やや低めの高台から丸みをもって立ち上がった形で、底が厚く小ぶりながらずっしりとした重みがあります。白磁胎の高麗茶碗を「堅手」といい、なかでもこの碗のように使用痕の染みが景色となったものを「雨漏(あまもり)堅手」と呼んでいます。
塚越正明氏寄贈,Gift of Mr. Tsukagoshi Masaaki,東京国立博物館,Tokyo National Museum
朝鮮時代(16世紀)。無地刷毛目とは高麗茶碗の一種で、白土を化粧掛けする際に刷毛を用いず、漬け掛けしたものです。遠州茶道宗家12世小堀宗慶(そうけい)による箱書があり、蓋裏に『新古今集』の西行の歌、「道の辺の清水ながるゝ柳かげしばしとてこそたちどまりつれ」が記されています。
塚越正明氏寄贈,Gift of Mr. Tsukagoshi Masa'aki,東京国立博物館,Tokyo National Museum
朝鮮時代(16世紀)。高台が高く、全体に丸みを帯びた独特の器形から、この碗ももとは祭器であったと推測されます。灰茶色の胎全体を白土で化粧し、透明釉をかけた「無地刷毛目」のうつわで、日本に伝わり茶碗として珍重されました。ところどころに生じた雨漏りが景色となっています。
松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
朝鮮時代(16世紀)。白化粧が施された柔らかみのある釉膚に、雨漏(あまもり)とよばれる染みが生じており、その景色から村雲の銘が与えられています。朝鮮時代に祭祀に用いるために作られた祭器が、日本の茶人の目にとまり、茶碗に見立てられたものでかつて平戸藩主松浦家に伝来しました。
広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
朝鮮時代(16~17世紀)。内向気味に削られた高台から丸みを帯びて立ち上がり、口縁は外反しています。ゆったりと深い碗形は朝鮮時代の白磁碗に共通する形です。「熊川」とは慶尚南道(キョンサンナムド)にある港の名に由来しますが、生産地は諸説あっていまだよくわかっておりません。
広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
朝鮮時代(16~17世紀)。彫三島とは彫りによって刻みをつけ、桧垣(ひがき)のような模様を表わし、そこに白土を象嵌(ぞうがん)したもの。高麗茶碗の中でも日本からの注文によって作られたと考えられている。この茶碗は内、外に花文があり、とりわけ外に花文があるのが珍しいところから外花手(そとはなで)とよばれる。 高麗茶碗(こうらいぢゃわん)といって、朝鮮半島でつくられた茶碗です。日本の茶人は16世紀末ころから、さまざまに趣向をこらした茶碗をもとめて、朝鮮半島に好みの茶碗を注文して焼かせるようになりました。この茶碗は、そうした注文品の初期のものでしょう。この茶碗は、印を押してつけた花の文様と、彫りによる斜め文で飾られています。このように細かく彫られた斜め文があるものを「彫三島」(ほりみしま)と呼んでいます。その名の由来は静岡県の三島大社で発行されていた「三島暦」にあります。「三島暦」は細かい文字がびっしりと刷られていたので、細かい文様を「三島」というようになりました。「彫三島」とは「彫で表現した細かい文様」ということなのです。また、この茶碗のように外側に花文があるのは珍しく「外花手」(そとばなで)と呼ばれ茶人に喜ばれました。
広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
朝鮮時代(16~17世紀)。魚屋(ととや)茶碗は、朝鮮半島で焼かれた高麗茶碗のひとつです。もとは、朝鮮の地方窯で量産された日常使いの器が、 日本の茶人の目にとまり茶の湯の席で使われるようになったものです。侘茶(わびちゃ)が大成される天正年間(1573~92)から評価を高め、さかんに輸入されるようになりました。この茶碗は、浅く直線的にひらいたかたちの平魚屋(ひらととや)と呼ばれるもの。びわ色の生地に、青みがかった灰色の釉がかかり、そのムラが、春のかすみのような景色を作っています。銘は、『金槐和歌集』の源実朝(みなもとのさねとも)の歌さわらびの もえいづる春に成りぬれば のべのかすみもたなびきにけりにちなんで、近江小室藩主小堀政峯(こぼりまさみね)(1689~1761)が、「さわらび」とつけました。この茶碗を納める箱の蓋裏には、政峯によって、この和歌が書き付けられています。小室藩の初代藩主は江戸初期の有名な茶人、小堀遠州。政峯は、今も続く遠州流の第5世でもあります。魚屋は斗々屋とも書き、高麗茶碗の一種。釉にムラがあり、灰色を帯びた地に枇杷色の斑模様が浮き上がっているようにみえ、いかにも温かみのある表情である。さわらびの銘は源実朝の歌にちなみ、近江小室(おうみこむろ)藩主小堀政峯(こぼりまさみね)(1689~1761)がつけたもの。
宮崎幸太郎氏寄贈,Gift of Mr. Miyazaki Kotaro,東京国立博物館,Tokyo National Museum
朝鮮時代(16~17世紀)。内外総体に白化粧が施されており、一見柔らかな感じの粉を刷いたような風情であることから粉引とよばれます。大徳寺江月和尚所持の伝来があります。「三好粉引」(三井記念美術館蔵)などとは作風が異なり、日本からの注文による茶碗と考えられます。
Chawan (Japan)
瀬戸,Seto ware,東京国立博物館,Tokyo National Museum
室町時代(16世紀)。国内における天目生産の増加は、唐物賞翫の意識の高まりと同時に、茶の受容の幅の広がりが表われている。本作は、15世紀末頃に作られたもので、建盞の鉄胎に倣って露胎部に銹を塗り、当時流行の建盞を強く意識していることがうかがえる。
長次郎,東京国立博物館
安土桃山時代(16世紀)。楽茶碗は、茶人千利休(1522~91)の創意を受け、長次郎(?~1589)によって創始されました。轆轤を用いずに手捏ねで形作り、箆で削って成形します。艶のない黒釉で高台までずっぽりと覆われたその姿には、静謐な中にも破格を求めた時代の精神が宿ります。
長次郎,Studio of Chōjirō; Black Raku style,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
安土桃山~江戸時代(16~17世紀)。初期の樂茶碗は、長次郎をはじめとする工房でつくられ、工房には長次郎の妻の祖父・田中宗慶やその息子・常慶らがいました。この茶碗は長次郎の「手づくね、総釉」という基本形をとりつつ、わずかに膨らんだ胴や広めにとった高台に、初期樂茶碗のなかでもより新しい時代の作を思わせる様相がみられます。
長次郎,Studio of Chōjirō; Black Raku style,松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
安土桃山~江戸時代(16~17世紀)。侘茶を大成させた千利休は、彼の思想に基づく茶碗を陶工長次郎に作らせた。轆轤(ろくろ)で作られたそれまでの茶碗と異なり、手捏ねで成形され、緩やかに凹凸のある茶碗は、手に自然におさまる造形に特色がある。
美濃,Mino ware, Yellow Seto style,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
安土桃山~江戸時代(16~17世紀)。美濃で作られた黄瀬戸の向付。黄色地に胆礬(たんぱん)と呼ばれる緑彩を施し加飾しています。胴に細い凸帯が巡らされたこの種の向付は江戸時代中期には茶碗として採り上げられ、胴紐(どうひも)茶碗と呼ばれ愛好されてきました。
美濃,Mino ware, Shino style,松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
安土桃山~江戸時代(16~17世紀)。岐阜県土岐(とき)市・可児(かに)市に広がる美濃窯では、天正から慶長にかけ黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部(おりべ)といった桃山様式の茶陶が焼かれた。この茶碗は大振りで筒形の造形が力強く、文様も奔放な筆致で橋と苫屋(とまや)が描かれる。志野の中でも古格で、堂々とした作風を示す。(2005/03/15) 岐阜県の美濃窯でつくられた、大振りで、筒型の志野茶碗です。半透明の白い釉薬を通して見える、土の独特な色と風合いや自由奔放な絵が魅力です。この茶碗には、橋と苫屋(とまや)が描かれており、そこから「橋姫」の名前がつけられました。 横から見ると底のほうが広がったずんぐりとした形、上から見ると、口はゆがんだ楕円形です。茶碗の鑑賞のコツは、実際に手にとってお茶を飲んだらどんなふうだろう、と想像してみること。大きく、ごつごつとして口もゆがんだこの茶碗は、手にしたときの存在感も大きく、もしかすると茶は飲みにくいかもしれません。この茶碗は、武家の間で茶の湯が盛んに行われた安土桃山時代から江戸時代初期につくられたものです。この時代の美意識を反映した、力強く自由な造形ということができるでしょう。 昭和12年(1937年)、この茶碗は実業家の松永耳庵の手にわたりました。耳庵は、同じく実業家で茶の湯の先輩であった原三渓から譲り受けた茶室「春草蘆」のお披露目の茶会でこの茶碗を使い、三渓はとても喜んだといわれます。その10年後の昭和22年(1947年)、この茶碗を含む耳庵の収集品の数々は、茶室「春草蘆」とともに当館に寄贈されました。
唐津,Carved Karatsu ware,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
安土桃山~江戸時代(16~17世紀)。唐津焼は佐賀県西部一帯の広範囲に広がり、その開窯にあたっては朝鮮半島からの渡来陶工が大きな役割を果たした。この茶碗は唐津の中でも初期の作と推測され、作風に美濃焼の影響がうかがわれるが、×形の力強い彫文様は唐津独自のものである。(20180227_h133)
本阿弥光悦,Hon'ami Koetsu,京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
<p>This Red Raku tea bowl is said to be the work of Hon'ami Kôetsu (1558-1637). Kôetsu was active in many of the applied arts over a long period of time and studied ceramic techniques with the second and third generation Raku heads, Jôkei (d. 1635) and Dônyû (1599-1656). Though the bowl is unsigned, the underside of its box lid bears an inscription by the twelfth head of the Eiraku Zengorô family, Wazen.</p>
美濃,Mino ware, Black Oribe style,松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。美濃では17世紀になると、器形・釉薬・文様に変化のある織部(おりべ)焼を作る。このように楕円形に歪(ゆが)めた沓(くつ)形茶碗は織部焼に多い。織部焼のうち、全体に黒い釉薬をかけ、一部に白地を残して鉄絵で文様を描いたものを黒織部(くろおりべ)という。
唐津,Karatsu ware, Seto Karatsu style,松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。瀬戸唐津とは白色の長石釉(ちょうせきゆう)が掛けられた唐津茶碗のこと。瀬戸風の唐津という意味で名付けられた。小さめの高台からまっすぐに開く平茶碗で、口縁に鉄絵具で黒色の縁取りがなされており、鯨の皮身のように見えることから皮鯨手(かわくじらで)とよばれる。
仁清、「仁清」印,By Ninsei,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。仁清(にんせい)色絵陶の初期の作と考えられる作品。箱書に「宗和老ヨリ来仁和寺焼 茶埦 俊了」とあり、この茶碗が金森宗和の指導のもとで焼かれていた頃の作と分かる。呉器(ごき)茶碗を思わせる椀形(わんなり)をわずかに歪ませ、ほぼ全面に施釉し、デザイン化した波と三日月を描く。 これは抹茶を飲むための茶碗です。波がしらの向こうに、細い三日月が大きくあらわされています。器全体に釉薬をかけて白地としたところに、選ばれた色数とのびやかな筆づかいで、デザイン的に施した絵付けが、飄々とした雰囲気を作り出しています。側面が急角度に立ち上がり、高台という底の部分が高く、切れ目が入る器の形は、朝鮮半島で焼かれた「高麗茶碗」(こうらいちゃわん)の一種である「呉器茶碗」(ごきちゃわん)を思わせますが、口縁(こうえん)にわずかなゆがみを意図的に加えているようです。 底裏には、「仁清」の印がおされています。江戸時代17世紀中ごろ、京都・仁和寺の門前で焼き物の工房を構えた野々村仁清(ののむらにんせい)は、鮮やかな色彩と絵画的な筆づかいで器に絵付けをした「色絵」(いろえ)を大成させたことで知られます。仁清の工房で制作された焼き物は、多くが現在に伝えられ、国宝や重要文化財に指定されている作品も、少なくありません。仁清は、日本の焼き物の歴史において、もっとも有名なブランドネームのひとつといえるでしょう。 中でもこの茶碗は、仁清が色絵を手がけた初期のころの作品と考えられています。
仁清、「仁清」印,Studio of Ninsei,山本富子氏・山本賢二氏寄贈,Gift of Ms. Yamamoto Tomiko and Mr. Yamamoto Kenji,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。胴を卵形に取り、口縁を外に開く珍しい形の茶碗。高台も碁笥底(ごけぞこ)と意表をついています。絵付けは源氏物語の紅葉賀の巻を主役の光源氏を描かない、いわゆる留守模様で暗示的に描き出しています。京都のやきものを代表する御室(おむろ)窯らしい王朝趣味の堂上好みを反映した作品です。
京焼、「清水」印,Kyoto ware,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。京焼特有のたっぷりとした白釉の地に、繊細な筆致で菊花文を表わす。中心の菊花には大胆にも銀彩が用いられるが、硫化して黒く変色する性質を持つ銀を積極的に上絵具に採り入れるのは、17世紀の京焼や伊万里にみとめられる特徴である。「清水」印銘を持つ。
得入作,By Tokunyū (1745–74); Raku ware, red-Raku type,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(18世紀)。得入は樂家八代。宝暦12年(1762)に襲名しました。生来病弱であったため、26歳の時に弟(のちの了入)に家督を譲り、30歳の若さで没しました。作陶期間が短いため、遺された作品は多くありませんが、茶碗としての完成度は高く、樂の伝統に真摯に向き合った姿勢が窺えます。
Tea Bowl, Hagi Ware,木村定三コレクション / Kimura Teizo Collection
江戸時代(17世紀後半)。
旦入作,By Tannyū (1795–1854); Red Raku style,横河民輔氏寄贈,Gift of Dr. Yokogawa Tamisuke,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(19世紀)。島台茶碗とは大小一組として重ねた茶碗を指し、上の小形の茶碗の見込みには金箔が、下の茶碗には銀箔が押された華やかな姿をしています。漆器を真似て作られたもので、正月用の濃茶茶碗として好まれてきました。本作品の作者旦入(1795~1854)は樂家十代当主です。 客を招いて抹茶でもてなす茶会では濃茶(こいちゃ)と薄茶(うすちゃ)がふるまわれます。濃茶では、格式の高い楽茶碗を使い、その中にたっぷりの抹茶を入れて練り、客人たちをもてなします。客人は一つの茶碗を回し飲みしますが、人数が多い大寄せの茶会などでは茶碗を複数使います。茶の湯で、お茶を点(た)てることを点前(てまえ)といいますが、このように複数の茶碗を用いる際、茶碗を重ねて茶席に運び入れる、「重ね茶碗」という点前があります。 この作品は茶の湯の大切な行事の一つ、正月の茶会・初釜(はつがま)の席で使われる茶碗で、島台(しまだい)茶碗といいます。上の茶碗に金の箔を、下の茶碗に銀の箔を貼って重ねた、お正月にぴったりなおめでたい華やかな作品です。 この作品のような楽茶碗は、千利休がやきものをつくる職人だった長次郎に自身の好みの茶碗を焼かせたのが始まりです。京都で取れた柔らかい土を使い、ろくろを使わずに手とヘラで形づくります。この茶碗は長次郎から続く樂家十代、旦入(たんにゅう)の作品です。旦入はヘラを装飾的に使うことを得意としていました。この茶碗の内側、見込(みこ)みと呼ばれる部分には、旦入が入れた大胆なヘラの跡を見ることができます。
薩摩・竪野系,Satsuma (Tateno) ware,内藤堯宝氏寄贈,Gift of Mr. Naitō Gyōhō,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(19世紀後半)。素地が白い、いわゆる「白薩摩」(しろさつま)の茶碗です。青みがかった白色で、貫入は浅く、細かい黒点が全体に入っています。胴部には粟(あわ)と鶉(うずら)の図が写生風に丁寧に描かれ、反対面には蝶々が二頭舞っています。赤、緑、黒、紫に加えて金彩が用いられ、小碗のなかに細かな表現が取り入れられています。
Chashaku (tea scoops)
武野紹鷗作,By Takeno Jō'ō (1502–55),松平直亮氏寄贈,Gift of Mr. Matsudaira Naoaki,東京国立博物館,Tokyo National Museum
室町時代(16世紀)。室町時代末の天文年間(1532~55)に茶の湯を指導した武野紹鷗(たけのじょうおう)の名茶杓。すらりと伸びた美しい茶杓で、その手本は象牙の茶杓に求められるだろう。櫂先(かいさき)の露の捻り返しも実に絶妙である。千宗旦による筒が添い、松平不昧(まつだいらふまい)による添状の箱を伴う。
蒲生氏郷作,By Gamō Ujisato (1556–95),松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
安土桃山時代(16世紀)。蒲生氏郷(がもううじさと)は千利休(せんのりきゅう)(1522~91)の高弟。武将茶人として知られ、茶杓削りに秀でた手腕を見せたと伝えられる。この茶杓は急角度に曲げた櫂先(かいさき)に特色があり、いかにも武人らしい気迫がうかがわれる。自作の筒に、「氏郷」と墨書で自署している。 (2005/10/25_h04) 茶の湯で、抹茶をすくうさじのことを茶杓(ちゃしゃく)といいます。金属や象の牙で作ったものもありますが、多くは竹で作られています。今回ご紹介する作品は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、蒲生氏郷(がもううじさと)が自ら削り上げたものです。氏郷は茶人・千利休の教えを受け、茶の湯にも精通していました。この茶杓は、のちに昭和を代表する茶人、松永安左エ門(やすざえもん)のコレクションとなり、東京国立博物館に寄贈されました。 茶杓を見るときのポイントをご紹介します。まず、節に注目しましょう。節がどの位置にくるかで全体の印象が変わります。節がないものや茶杓の下のほうにあるものもありますが、この作品では茶杓の中央に節がきています。次は、表情です。表情とは皮目の模様などのことで、まだら模様があったり、「虫食い」と呼ばれる穴があいていたり、あえて変化に富んだ竹が好まれる場合もあります。この作品は節から下に凹凸がり、表情が豊かです。そして、茶杓の先端です。抹茶をすくうために曲がっている部分を櫂先(かいさき)といいますが、ここは作り手の特徴がよく表れる部分です。氏郷の茶杓は櫂先の幅が広く、さらに横から見ると急な角度で折れ曲がっています。とても豪快な印象です。武将・氏郷の気質が感じられます。 茶杓を納める筒の下のほうには、サインがあります。これが、氏郷の作であるという証です。 武将であり、茶人でもあった氏郷の手による茶杓を、ぜひご堪能ください。
古田織部作,By Furuta Oribe (1543–1614),広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
安土桃山~江戸時代(16~17世紀)。古田織部(1543~1615)は名を重然といい、利休七哲の一人で、利休没後天下一の茶匠として慶長期(1596~1615)における茶の湯に大きな影響を与えた人物。氷割れのある竹を使い、節が強く屈曲する蟻腰の形で、櫂先はくっきりと曲がる折撓めとなっています。
杉木普斎作,By Sugiki Fusai (1628–1706),広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。杉木普斎(すぎきふさい)(1628~1706)は江戸時代前期の茶人で宗旦四天王の一人に数えられる。千利休から宗旦(そうたん)に受け継がれた茶風を継承し、自作の道具には宗旦と似て侘びた趣をもつものが多い。実業家、茶人として知られる原三渓(はらさんけい)(富太郎)の旧蔵品。 茶の湯で、抹茶をすくうさじのことを茶杓(ちゃしゃく)といい、多くは竹で作られています。茶杓は、お茶会などに合わせて茶人自らが作りました。茶杓を納める筒には、作者によって自身の名(な)や銘(めい)などが記されます。 今回ご紹介する作品は、江戸時代前期の茶人、杉木普斎(すぎきふさい)が作ったものです。普斎は、千利休の孫で利休のお茶を継承した千宗旦(せんそうたん)の弟子の一人です。 茶杓を見るときは節・表情・櫂先(かいさき)に注目してください。 まず、「節」ですが、この位置で全体の印象が変わります。この茶杓では節は真ん中に近い位置にあり、つぶれたような印象です。 つぎに、「表情」ですが、表情とは皮目の模様や質感などのことで、あえて変化に富んだ竹が好まれます。この茶杓では節から下には凹凸があり、節から上との表情の違いを楽しむことができます。また、長年使いこんだことによる色の変化も趣を見せています。 そして「櫂先」とは、茶杓の先端、抹茶をすくうために曲がっている部分のことで、ここは作り手の特徴がよく表れます。この茶杓を見てみると、櫂先は幅が広く、たっぷりと抹茶をすくうことができそうです。 銘の「亀」のいわれはわかっていませんが、おめでたい意味を込めたのでしょうか。普斎が茶杓に込めた思いを想像しながらご覧ください。
藤村庸軒作,By Fujimura Yōken (1613–99),広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。藤村庸軒は江戸時代前期の茶人。はじめ藪内流の茶を学び、ついで小堀遠州、さらに千宗旦に学んだ。杉木普斎、山田宗徧、久須美疎安とともに宗旦四天王に数えられる。詩文に親しみ漢詩をよくしたとされ、その茶道具には漢詩に因むものが多い。
小堀遠州作,By Kobori Enshū (1579–1647),松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。小堀遠州は江戸初期に活躍した大名茶人。千利休や古田織部の茶に影響を受けつつ、日本の古典に目を向け、茶湯道具に和歌に因んだ名を付けたり、瀟洒な茶陶を注文して作らせるなど、新たな茶風を確立しました。「埋火」とは灰の中に小さく燃え残った炭火を指します。
伝村田珠光,広田松繁氏寄贈,東京国立博物館
Mizusashi (fresh water containers)
中国・龍泉窯,Longquan ware, China,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
明時代(15世紀)。日本では、翠緑色を呈したこの手の青磁を「天龍寺」と呼んでいます。不孤斎が塗蓋を付けて平水指に見立てたものです。近年類例が龍泉窯の楓洞岩窯址の発掘調査から見つかりましたが、この窯は明の宮廷への貢納品を生産した官窯であったことがわかっています。
広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
15~16世紀。銅と錫の合金からなる「砂張」の水指。古来仏具として日本でも親しまれた砂張であるが、15~16世紀になると飲食器として東南アジアや中国で普及し、新たに茶湯道具に取りあげられるようになった。この作品は端正な碗形が美しい。近代数寄者、原三溪旧蔵品。(三笠氏執筆)
信楽,Shigaraki ware, Onioke type,東京国立博物館,Tokyo National Museum
室町時代(16世紀)。初期の信楽水指。粘土紐巻き上げ成形で、胴はほぼまっすぐに立ち上がり、口に縁がつけられています。正面には黄緑色の自然釉が掛かり、総じて素直なつくりをしています。「鬼桶」 の名は、苧麻(ちょま)を貯蔵した「苧桶(おおけ)」から転じられたと考えられています。
備前,Bizen ware,東京国立博物館,Tokyo National Museum
室町~安土桃山時代(16世紀)。底から口にむかってわずかに開く、素直な形をした水指です。よく焼きしまった黒褐色の器肌の前面に、黄がかった自然釉が掛かり、片身替わりのような景色をつくりだして見どころとなっています。
備前,Bizen ware,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
安土桃山~江戸時代(16~17世紀)。焼締め陶の代表的な窯の一つ、備前(びぜん)の水指。下膨れの胴を持ち、上部は横に数段鎬(しのぎ)を巡らして引き締め、左右に耳を付けた独特の姿をとる。茶陶の制作が最盛期を迎えた頃の作で、千利休所持との伝来がある。底には利休による漆書き「タツタカワ (ケラ判)」が残る。
備前,Bizen ware,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
安土桃山~江戸時代(16~17世紀)。胴の下方が膨らんだ、備前の水指のなかでは穏やかなつくりをしています。土肌は白みがかったところと褐色に焼き上がったところとが混在し、そこに緋襷による景色があらわれています。大名茶人松平不昧(まつだいらふまい)が旧蔵し、箱には不昧筆による「ひたすき 水指」の文字が記されています。
中国・景徳鎮窯,Jingdezhen ware, China,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
明時代(17世紀)。中国明末に景徳鎮民窯で焼かれた手桶形水指。本作品のように素地が粗く、古拙な趣を醸した明末の青花を日本では「古染付」と呼び、親しんできた。それらは茶湯道具として日本から注文されたものと考えられている。花鳥のほか、水辺の生き物を描いた爽やかな一品。
中国・景徳鎮窯,Jingdezhen ware, Kosometsuke type,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
明時代(17世紀)。日本の茶人が江戸時代初頭に中国の景徳鎮窯(けいとくちんよう)に注文して作らせた水指。中国陶磁の伝統にはない器形であり、底部に三つの脚が付けられている。胴と蓋表の全面に染付で網代(あじろ)文をあらわし、その上に舟を漕ぐ櫂を配する大胆な構成が目を引く。
伊賀,Iga ware,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。伊賀焼は天正年間(1573~91)に信楽焼を母に茶道具専焼の窯として三重県伊賀市(旧阿山町)に開窯。伝統の焼締技法で水指・花入に優品を作った。この水指も底を三方からたわめ、頸部に左右非対称の耳を貼り付ける。豪快な作為に富む造形である。
上野,Agano ware,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。豊前小倉藩が開いたと伝わる上野窯の作。薄づくりで菱形という珍しい形をとり、黒褐色と灰色の二色の釉によって片身替りとした水指。織部に代表される桃山様式の影響を残しながら、寛永期に流行する遠州好み、武家好みの気分が漂う。
仁清、「仁清」印,By Ninsei,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。夏の茶事に好まれる平水指。京焼の大成者として名高い仁清の作で、薄づくりの素地に何気なく流し掛けられた鉄釉の景色が見事である。華やかな色絵で知られる仁清であるが、轆轤技術も卓越しており、本作品のように瀬戸窯の作に倣った優品も多く遺されている。
仁清、「仁清」印,Studio of Ninsei,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。17世紀前半、京都洛西仁和寺(にんなじ)の門前で御室(おむろ)窯を開いた野々村仁清(ののむらにんせい)は、卓越した轆轤(ろくろ)の技と色絵の技に、王朝趣味を加えて典雅で優美な世界を作り上げた。この作は珍しく中国的な窓絵の構図を取りながら、入念な色絵による牡丹図が和様の趣をもたらしている。水指(みずさし)は、茶道で使う水を入れる器です。水指の水を茶釜につぎ足して湯を補ったり、茶碗や茶筅(ちゃせん)をすすいだりします。茶碗や茶釜などと同様に、「茶の湯」では欠かすことのできない、重要な道具の一つです。 江戸時代17世紀中ごろ、京都・仁和寺(にんなじ)の周辺で焼き物の工房を構えた野々村仁清(ののむらにんせい)は、鮮やかな色彩と絵画的な筆づかいで絵付けをした「京焼」(きょうやき)を大成させたことで知られます。 作品をみてみましょう。器の形は、美しく整えられています。側面に窓枠のような区画を4つ設け、牡丹の花や雲を描き表しています。やわらかなタッチの絵と幾何学的な文様、淡い色と濃い色、金と銀など、対比がたいへんに印象的です。とりわけ高い技術を必要とする金と銀の使い方について、仁清は強く意識を働かせていたといわれています。その特色がよく表れた作品といえるでしょう。器の底裏には「仁清」のサインが刻まれています。
虫明,Mushiage ware,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸~明治時代(19世紀)。虫明焼は岡山県瀬戸内市邑久町虫明で焼かれたもの。江戸時代中期に始まり、現在も作陶が続いています。幕末から明治初年にかけて、伊木家十三代忠澄(号三猿斎)の御庭焼として、茶人好みの風雅な作品をつくり出しました。底裏に「むしあけ」の印がのこります。
Futaoki (lid rests) and kensui (rinse-water receptacles)
中国・龍泉窯,Longquan ware, China,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
元時代(14世紀)。飛青磁(とびせいじ)とは黒褐色の斑文を散らした青磁をいう。浙江(せっこう)省の龍泉窯(りゅうせんよう)で元時代に流行した。日本で茶釜の蓋を置く蓋置に見立てられている。夜学(やがく)の名は、中国で夜間の勉学に用いる灯明の火皿を置く台からの転用といわれることに由来する。
広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
明時代(17世紀)。中位にくびれのある井戸のような枠の中を、笠をかぶった人物が覗き込んでいます。一閑人(いっかんじん)は利休好みといわれる七種蓋置の一つに数えられており、本来は文具からの転用といわれています。明時代の青磁特有の、透明性のある青緑色の釉薬が印象的です。
中国・景徳鎮窯,Jingdezhen ware, [Kosometsuke] type, China,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
明時代(17世紀)。蓋置は釜の蓋を置き、また柄杓(ひしゃく)を引くのに用います。中国の景徳鎮窯において明時代末に日本の茶人向けに焼かれたもので、稜には虫喰(むしく)いとよばれる釉薬の剥落が見られます。飄逸(ひょういつ)な作風の古染付(こそめつけ)の蓋置は、茶席に興趣を添える存在として珍重されました。
灰屋紹益作,By Haiya Jōeki (1610-91),広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。朱漆で記された判から灰屋紹益(本名佐野重孝、1610~91)の作とされる。紹益は京都の豪商で、和歌を烏丸光広に学び、茶の湯を千道安、本阿弥光悦に学んだ文化人として知られる。吉野太夫を身請けしたエピソードは有名である。
藤村庸軒 FUJIMURA Yoken,木村定三コレクション / Kimura Teizo Collection
広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17~18世紀)。畳付と釜の蓋を置く部分は笹枝の表現とし、中央にまるで生きているかのようにリアルに表わされた蟹がみえる。笹蟹蓋置は人気の茶湯道具の一つで、いかにも初夏の茶事にふさわしい涼しげな一品である。古美術商広田松繁(不孤斎 1897~1973)ゆかりの作品。
小林栄二,北光生,本江敏彦,般若保
高岡銅器の蓋置である。茶道で窯の蓋をのせる道具として使用される。技法は線象嵌、毛彫、片切彫など高い技術が使われている。作者は小林栄二、北光生、本江敏彦、般若保。各人ともに名金工である。
松平直亮氏寄贈,Gift of Mr. Matsudaira Naoaki,東京国立博物館,Tokyo National Museum
明時代(15~16世紀)。砂張とは銅を主とし錫(すず)を含む合金のことで、亜鉛、鉛なども少量含む。建水には、金属・陶磁・木竹工品があるが、砂張のものは特に人気が高く珍重される。かつて、松江藩主松平不昧治郷(まつだいらふまいはるさと)が所持し、付属する外箱には不昧筆の文字が見られる。
松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
明時代(15~16世紀)。砂張とは銅9に対して錫(すず)1を含む合金のことで、亜鉛、鉛なども少量含む。建水とは点茶の際に湯水を捨てる器で金属・陶磁・木竹工品の三種があるが金属製、特に砂張のものは人気が高い。この建水は頸の所をやや締めた袋形で、金森宗和(かなもりそうわ)の所持という伝来を持つ。
仁清,By Ninsei,西脇健治氏寄贈,Gift of Mr. Nishiwaki Kenji,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。17世紀前半、京都洛西仁和寺の門前で御室窯を開いた野々村仁清は、色絵とともに轆轤の技に定評がある。この作品はその轆轤の冴えを遺憾なく発揮した秀作。底から側面にかけて丁寧に削り上げ、内面に薄い白釉を掛けている。底裏には仁清の印を捺している。
Hanaire (flower containers)
中国・龍泉窯,Longquan ware, China,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
元~明時代(14~15世紀)。象の頭部をかたどった耳が特徴的な青磁花入。金属器に倣った洗練された形と青い釉が美しい。こうした中国製青磁や古銅の花入は、江戸時代以降、唐物第一とする将軍家、大名家においてとりわけ珍重された。本作品は茶人としても知られた古美術商、広田不孤斎旧蔵品。
中国・龍泉窯,Longquan ware, China,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
明時代(15世紀)。胎が灰色を帯び、釉はガラス質で緑色を呈している。明時代の龍泉窯の製品である。下蕪(しもかぶら)形で、口縁近くに獣耳が付く。同形の青銅製の花生は元時代の遺構から見つかっている。日本では、このような細頸の花生は茶人に好まれ、のちまで重宝された。中国浙江省(せっこうしょう)の南西部、山深い龍泉市(りゅうせんし)を中心にひろがる龍泉窯(りゅうせんよう)で作られた花入(はないれ)です。このように、透明感のある青色の釉薬(ゆうやく)のかかったやきものを青磁(せいじ)といいます。龍泉窯は古くから青磁の産地として知られ、とくに南宋時代・12~13世紀につくられた潤いのある明るいみずいろの青磁が有名です。この作品は明時代・15世紀につくられたものです。明の龍泉窯の特徴は、すこし緑がかった青色と、比較的厚みがあり釉薬を何回もかけてやかれているため、持ってみるととても重いことです。底をみると、鉄分を含んだ灰白色(かいはくしょく)の土を使っていることがわかります。青磁というと吸水性のない白い土を使った、いわゆる磁器だと思っている人が多いようですが、実は、吸水性のある土を使った陶器なのです。この土と、釉(うわぐすり)に含まれた鉄分によって、還元焔焼成(かんげんえんしょうせい)、つまりできるだけ酸素を遮断して焼いたときに青色を帯びたやきものになるのです。この花入は、下のほうが丸く膨らんでいることから、下蕪(しもかぶら)の名で呼ばれます。口のところには獣の頭のかたちの耳がついています。もともとは古代の青銅器の形を模してつくられたと考えられますが、花入という用途にあわせて首が細く長くなったのでしょう。龍泉窯の青磁は古くから日本に数多く輸入されていますが、このような花入はとくに日本の茶人に好まれたようです。さて、あなたならどんな花を生けますか?
松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
室町時代(15~16世紀)。中国では北宋の頃より金石(きんせき)学の流行に伴い、古代の青銅器を復古的に模した古銅の器が人気を集め、日本へももたらされ、茶席を飾る花入や香炉のなかで最も格式高いものとして珍重されました。本作品は中国の古銅に倣って日本で制作されたと考えられます。
信楽,Shigaraki ware,東京国立博物館,Tokyo National Museum
室町時代(15世紀)。肩部に檜垣文がめぐらされた中世信楽の小壺です。穀物などの貯蔵用として使われていましたが、茶の湯の世界で花入として取り上げられました。人が背を曲げて丸くしゃがみこむ姿に似ることから「蹲+うずくまる+」と呼ばれ、茶人の間で好まれました。
備前,Bizen ware,松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
安土桃山~江戸時代(16~17世紀)。ふっくらとしたやや長い胴をもち、徳利としても用いられた花入です。焼成時に強く炎にあたらなかったとみられ、よく焼き締まって黒褐色に焼きあがる備前焼とは対照的な、穏やかな肌合いが特徴的です。
信楽,Shigaraki ware,東京国立博物館,Tokyo National Museum
安土桃山~江戸時代(16~17世紀)。筒形に成形したのち、前後からたわめられ、さらに胴部に凹線が施されてひきしまった形をしています。そこに自然釉が全面にわたって掛かり、土肌の色との違いがあらわれて片身替わりのような景色をなしています。掛花入として用いるための穴が前後にあけられ、のちに一方が埋められています。
伊賀,Iga ware,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。伊賀には激しい歪みを施した表現がしばしばみられますが、この花入もその一つです。口部が丸く膨らんだ柑子口(こうじぐち)に双耳をもつ形はそれまでの花入にもみられる形ですが、この作品ではさらに胴部に歪みや削りが加えられています。炎のあたり方の違いによる、前後の土肌の異なった景色も見どころです。
備前,Bizen ware,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。形状から旅枕、あるいは経筒と呼ばれる花入。円筒形に作られた後に、頸部に凹線を巡らし、胴を四方から撓めて、桃山様式の茶陶らしい作風を示している。掛花入としての、鐶(かん)のための穴が前後に穿たれていたが、前の穴は埋められている。ルビ:たびまくら きょうつつ たわ かん(2005/10/25_h04)
中国・景徳鎮窯,Jingdezhen ware, China,東京国立博物館,Tokyo National Museum
明時代(17世紀)。明時代末、日本からの注文を受けて景徳鎮民窯で作られた古染付の花入。虫喰いや歪みが生じた姿に枯淡で飄逸な魅力がある。祖形は宋時代の砧青磁の双耳花入で、高砂の名は青花で描かれた男女を謡曲「高砂」の尉と姥に、水草を相生の松に見立てたことによる。
伝千利休作,Attributed to Sen no Rikyū (1522–91),松平直亮氏寄贈,Gift of Mr. Matsudaira Naoaki,東京国立博物館,Tokyo National Museum
安土桃山時代(16世紀)。天正18(1590)年、豊臣秀吉が行った小田原攻めに同行した茶人・千利休が、戦いの最中、静岡県・伊豆韮山(にらやま)の竹で作ったと伝わる花入です。利休から養子の、千少庵(しょうあん)に贈られました。 花入とは、茶の湯で床の間を飾る花を入れる器ですが、利休がこの花入を作ったことをきっかけに、竹製のものが広く用いられるようになりました。花入の上の部分にある窓が開いたような切込みは、花を生けるために開けたもの。このような窓が一つの形のものを一重切(いちじゅうぎり)と呼びます。裏側を見ると、上部に丸い穴が開いています。これは花入を壁掛けにする際にかけるための穴です。花入は床の間に置いたり、壁や柱などにかけて茶席に彩を加えました。 作品は、正面に縦に入る大きな割れ目が印象的です。これは自然にできた竹の割れ目をそのまま生かしたもので、花入の表情となっています。割れ目の縦の線と、竹の節の模様が交差する様子まで計算して竹を切り取ったのでしょうか。この割れ目が滋賀県の園城寺(おんじょうじ)というお寺にある鐘の傷に似ていることから、少庵によって銘がつけられました。園城寺の鐘は、平安時代末期の武将、源義経に仕えた武蔵坊(むさしぼう)弁慶が引きずって破れたと伝わっています。花入の裏に銘と少庵の名が刻まれています。
伝金森宗和作,Attributed to Kanamori Sōwa (1584–1656),広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。箱蓋裏に片桐石州(かがぎりせきしゅう)(1605~73)筆とされる「尺八切細竹 宗和作」の貼紙があり、堂上の茶匠といわれた金森宗和(かなもりそうわ)(1584~1656)の作として伝えられた。ゆらぐような姿はいかにも優美であり、「姫宗和」といわれた金森宗和の茶に通じるものが感じられる。
広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。瓢箪(ひょうたん)を掛花入としたもので、背面には鐶(かん)が付く。その下には、千宗旦(せんそうたん)の朱漆による書付で、千利休(せんのりきゅう)作として知られていた子狐という瓢花入に似たものであったことが記される。箱書から、仰木魯堂(おうぎろどう)から原三溪(はらさんけい)、のちに広田不孤斎(ふっこさい)松繁蔵に伝わったものとわかる。不孤斎自筆の書付も沿う。
京都国立博物館 Kyoto National Museum
京都国立博物館 Kyoto National Museum
Kogo (incense containers)
阿形邦三氏寄贈,九州国立博物館
南宋時代(12~13世紀)。合子は、蓋付の小さい容器のことで、主に香合や化粧品入などとして用いられた。身は、中央に窪みのある平らな底部を持つ円形の器で、側面に線彫りで縦線を廻らす。蓋は、表面に型押しと線彫りで円形の枠を設け、その中に大きく牡丹唐草文をあらわし、肩には縦線の線彫りを施す。身・蓋ともに底部と口縁を除き、全体に淡い青磁釉をかける。中国大陸における本格的な青磁の生産は後漢時代の2世紀に遡り、その後、三国時代(220-265)から西晋時代(265-316)にかけて浙江省の越州窯で青磁生産が興隆した。本作品は、淡い灰色をおびた青緑色で、丁寧に彫り込まれた文様も繊細である。南宋時代(1127-1279)に作られた製品と考えられる。この時期の製品は、鎌倉や京都を中心に日本の寺院に伝来しており、室町時代には足利将軍家の座敷飾りにも用いられた。
東京国立博物館,Tokyo National Museum
鎌倉時代(13世紀)。今日「香合」とよばれている作品には、本来化粧道具を収める「手箱」の内容品であったものが多い。方形のものは白粉箱、円形のものは薫物箱(練香を入れる)、長方形のものは五倍子箱(お歯黒の媒染剤を入れる)として使われていた。 ルビ:てばこ おしろい たきもの ふし
「楊茂造」銘,内藤堯宝氏寄贈,Gift of Mr. Naitō Gyōhō,東京国立博物館,Tokyo National Museum
元時代(14世紀)。
Acorn shaped Incense Container, camellia motif,mother-of-pearl inlay on Black Lacquer,lacquer on wood,木村定三コレクション / Kimura Teizo Collection
東京国立博物館,Tokyo National Museum
15~16世紀。ベトナム製のやきもの、いわゆる「安南焼」は、中国景徳鎮窯器とは異なり、温かみのある素地や味わい深い文様が日本の茶人に好まれた。灰色の胎に白釉で化粧を施し、そこに下絵付けを施して透明釉を掛けている。コバルトが墨色がかって趣がある。岡野繫蔵旧蔵品。(三笠氏執筆)
タイ・シーサッチャナーライ窯,Si Satchanalai ware, Thailand,岸野浩平氏寄贈,Gift of Mr. Kishino Kohei,東京国立博物館,Tokyo National Museum
15~16世紀。アユタヤ王朝のもと、15~16世紀頃、中心的な窯地シーサッチャナーライで焼かれた下絵付けの鉄絵のうつわ。「宋胡録」とはシーサッチャナーライの南に位置するサワンカロークに由来します。日本では茶人たちがこれを柿に見立て、香合として珍重しました。
松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
16世紀。甲盛りの丸く扁平な「平独楽」の香合。生産地はタイともインドともいわれ、現段階では判然としないが、いかにも茶人好みの侘びた趣がある。細川三斎所持の伝来があり、その後江戸時代の豪商として名高い鴻池家に伝わり、松永安左エ門から当館に寄贈された。
東京国立博物館,Tokyo National Museum
室町時代(16世紀)。表面は、素地に獅子牡丹の文様を彫り込み、朱漆を塗って仕上げている。いわゆる鎌倉彫による作品である。獅子と牡丹の組み合わせは、室町時代大いに流行したもの。特に鎌倉彫の作品には、このように獅子に比べて牡丹を大きく扱う例がよく見られる。
美濃,Mino ware, Shino style,松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
安土桃山~江戸時代(16~17世紀)。蓋と身の合わせ目がくびれた形状が頭巾(ずきん)を思わせるところから頭巾香合とも呼ばれる。鉄絵を小さな器面いっぱいに描き込むのは、最盛期の志野の特徴のひとつ。所々焦げて黒く現れ、茶と黒との変化によって小品ながら力強く迫ってくるものがある。(2006/09/26_h04)(121127_h04)
中国・景徳鎮窯,Jingdezhen ware, China,東京国立博物館,Tokyo National Museum
明時代(17世紀)。古染付とは中国明代末期の天啓(てんけい)年間(1621~27)頃に景徳鎮民窯で日本の注文で作られたもの。この香合は染付形物(かたもの)香合の一種で「形物香合番付」では西方三段目一位とする。脚付きの四方の香合で、摘みとして月を見上げるように座した布袋が添えられる。
中国・景徳鎮窯,Jingdezhen ware, China,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
明時代(17世紀)。下膨れの茄子をかたどり、蓋に蔕(へた)もついている。香合とは香を入れる蓋付の器のことで、この作品は中国明時代の景徳鎮窯(けいとくちんよう)で日本の茶人向けに作られた。初夢に縁起のよい茄子の形であるだけでなく、おめでたい松も描かれた正月にもぴったりの作品である。
中国・漳州窯,Zhangzhou ware, China,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
明時代(17世紀)。交趾(こうち)とは現在のベトナム中部を指し、交趾焼の名はこの地方から日本に来航した交趾船によってもたらされたことに由来します。近年、実際の産地が福建省南部の漳州(しょうしゅう)と判明しました。『形物香合番付』では東方二段目十位。犬養木堂 (毅)の旧蔵品。茶の湯で、湯を沸かすための炉に亭主が客の前で炭を足す一連の動作を炭点前といい、炭を足し終えると香を焚(た)きます。香は蓋のついた容器に入れて扱われますが、この器のことを香合(こうごう)といいます。今回ご紹介する作品も、茶の湯で用いられたものの一つです。作品名の交趾(こうち)とは現在のベトナムの地名にちなんだ名前で、交易のために日本にやってきた船に積まれていたので、こうした呼び名がついたのでしょう。近年の発掘調査によって、「交趾焼」と呼ばれるやきものが、実際は中国福建(ふっけん)省南部のしょう州(しょうしゅう)一帯で作られたものであることが明らかになりました。この作品は石榴(ざくろ)をかたどったもので、これらのことから、交趾石榴香合(こうちざくろこうごう)と呼ばれています。かつて、元首相の犬養木堂(いぬかいぼくどう)(毅(つよし))が所有していました。作品を見てみましょう。蓋から身にかけて3つの丸枠があり、それぞれの枠の中には馬の模様が型押しされています。色は黄色と紫、二色の釉薬を用いて塗り分けられています。見る角度によって虹色に光って見えるなど、独特の発色です。落ち着いた味わいを見せる交趾焼は、茶の湯にも合う、日本人好みのやきものです。
中国・漳州窯,Zhangzhou ware, China,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
明時代(17世紀)。菱形を三つ繋ぎあわせた松皮菱(まつかわびし)形の香合。灰色を帯びた素地に、沈んだ発色の染付(そめつけ)で人物図が描かれており、瀟洒な作風を示している。さまざまな形物香合を評価し、順位付けした安政2年(1855)の『形物香合番付』では、西前頭八枚目と高く評価されている。
伊賀,Iga ware,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。水指、花入に名品が多く伝わる伊賀において、珍しい香合の名品です。伽藍石とは、寺院などの柱を支えた礎石のことで、茶の湯では風情のあるものとして好まれました。伊賀らしい、緑色のたっぷりとしたビードロ釉が蓋上部に溜まり、石に生えた苔のような趣があります。 香は、席中を浄める役割があるとされ、茶の湯のしつらいのなかでも大切な要素の一つとされています。夏は白檀(びゃくだん)などの香木を、冬はいくつかの香木や香料の粉末を練り固めた練り香を焚いて、それぞれの季節にふさわしい香りで客をもてなします。 香合は、香を入れておく器です。亭主は、客の前で炉に炭を入れる炭手前を行いますが、その際に、香合から香を取り出して炉の中に入れます。また、香合は、それ自体が鑑賞の対象とされます。 さて、今回紹介するこの香合は、寺院の大伽藍(だいがらん)を支える礎石をかたどったもので、伽藍石香合と呼ばれています。香合の蓋上の丸い円座のようなところは、丸い柱を支える部分をイメージしているのでしょう。小さいながらもごつごつとした力強い造形に、伽藍石の大きさといにしえの時の流れが感じられます。 この香合は、三重県の伊賀で焼かれたものです。伊賀の特徴とされるガラス状のビードロ釉の緑がとても美しい作品です。 江戸時代後期の大名茶人松平不昧(ふまい)が所持していたと伝えられています。
野々村仁清
One of the most renowned potters NONOMURA Ninsei opened a kiln just outside the Ninnaji Temple in Omuro
乾山,By Kenzan (1663–1743),広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(18世紀)。江戸時代を代表する絵師尾形光琳の弟尾形深省(しんせい)は、元禄12年(1699)に京都鳴滝(なるたき)に窯を開き、作品には「乾山(けんざん)」の銘を書き込みました。深省四十年程の作陶歴のなかで、この香合は初期鳴滝時代の作と推測されます。椿一輪を型抜きした細やかな色絵陶器です。
京焼,Kyoto ware,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(18世紀)。香合は香を入れる蓋付きで小型のうつわです。この機能を満たした上で、さまざまな形の香合が作られ、その面白さが茶席では楽しまれます。抽象的な造形を得意とした桃山様式の香合に対して、江戸時代には具象的な造形が好まれ、ここでは孔雀が題材となっています。
仁阿弥道八作,By Nin'nami Dōhachi (1783–1855),内藤堯宝氏寄贈,Gift of Mr.Naito Gyoho,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(19世紀)。
Other items
東京国立博物館,Tokyo National Museum
南宋時代(13世紀)。天目茶碗をのせるための杯台。茶碗をのせたまま、台ごと手にとって飲みます。大勢で卓を囲み、飲食を楽しむようになった唐・宋時代より、貴族のあいだで流行した器種で、堅牢で熱を伝えにくい漆塗りの台は次第にひろく定着しました。
広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
明時代(15世紀)。牡丹、椿などの四季の花が、的確な彫法で器面いっぱいにあらわされており、明時代前期の彫漆の技術水準をよく示している。このような堆朱の天目台は、15世紀前半にはすでにわが国に数多く伝えられ、寺院や書院で用いられていた。
九州国立博物館
安土桃山時代(16世紀)。木製漆塗。天目を載せるための台。本来は天目にともなっているものであるが、台のみで伝世している。天目台は、鎌倉時代、中国の天目山に遊学した僧により茶碗とともに持ち込まれたといわれ、黒漆塗や朱漆塗のほか彫漆や螺鈿で飾られたものなどがある。本品は酸漿と脚の外面、羽裏は黒漆塗地に金箔押とし、羽表面と内部は朱塗とした天目台である。羽は六弁の輪花形で、酸漿が大きく土居も高めである。
九州国立博物館
江戸時代(17世紀)。漆塗。天目を載せるための台。本来は天目にともなっているものであるが、台のみで伝世している。天目台は、鎌倉時代、中国の天目山に遊学した僧により茶碗とともに持ち込まれたといわれ、黒漆塗や朱漆塗のほか彫漆や螺鈿で飾られたものなどがある。本品は総体黒漆塗、羽は六弁の輪花形で、酸漿が大きく上方へ開き、土居は低い。唐物の天目台を写したものとみられる。
東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(17世紀)。網を干す様子は、その曲線の組み合わせの妙が人々に好まれたものらしく、桃山時代以降の絵画や工芸品のモチーフに、しばしば見うけられる。中でもこの棚は木地の直線的な構成と文様が見事に調和して、出色の出来映えを示している。 江戸時代には茶人の好みなどを反映した様々な飾り棚が発展しました。この棚もおそらく、下段の戸の中に水指を入れて、茶席で用いられたものでしょう。 表面には黒い漆を塗って、その上に漆で図柄を描き、細かい金粉を蒔きつけ定着させて文様を表しています。この技法を「蒔絵」といいます。 棚板や戸には、水辺に鷺が舞い飛び、網を干す情景を描いています。漁業に使う網を干す様子は、その曲線が画面に作り上げるリズムが人々に好まれたらしく、安土桃山時代以降の絵画や工芸品のモチーフに、しばしば見受けられます。中でもこの棚は、棚板や支柱の直線的な構成と弧を描く網の図柄が見事に調和しています。また銀粉で表わされた鷺が、踊るように飛び交う様子も、軽快で洒落ています。 空調のない時代、人々は水辺や雪を描いた文様から涼しさを感じ取り、夏の暑さをやりすごしたといいます。
駒沢利斎,京都国立博物館 Kyoto National Museum
駒沢利斎,京都国立博物館 Kyoto National Museum
京都国立博物館 Kyoto National Museum
広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
明時代(17世紀)。炭取(炭斗)とは、炉中に炭をつぐ「炭点前」の際に、炭や羽箒、火箸、鐶、釜敷、香合などを組んで運ぶための容器をいう。一般に、竹や藤で編んだ籠状で身の深いものが用いられ、この作品のように中国製の、いわゆる「唐物」と伝わるものがとくに珍重される。
京都国立博物館 Kyoto National Museum
京都国立博物館 Kyoto National Museum
京都国立博物館 Kyoto National Museum
京都国立博物館 Kyoto National Museum
京都国立博物館 Kyoto National Museum
中国・龍泉窯,Longquan ware, China,広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>澄んだ青色の釉調が印象的な龍泉窯青磁の鉢。二重箱で、古い内箱の蓋表には「青磁砧 菓子鉢」と墨書があり、茶湯道具として伝世してきたものであることがうかがえます。茶の湯で珍重された陶磁器は、数寄者であった不孤斎のコレクションの中核を担っています。<br /></p>
志戸呂,東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>数少ない志戸呂焼の資料であり、箱書には「駿州志と路焼菓子鉢」と書かれている。透鉢の流行は、江戸前期の特色であり、なかなか力強い造形に大きく蕨手と雲を切り抜いた力感こもった分銅形の鉢。平底の轆轤目は瀬戸系の窯であることを偲ばせる見所である。<br /></p>
京都国立博物館 Kyoto National Museum
5代中村宗哲作,By Nakamura Sotetsu V (1767-1811),東京国立博物館,Tokyo National Museum
表千家六代原叟(げんそう)の好みによる懐石道具の一式。19世紀初めにまとめられた茶道書『茶道筌蹄(ちゃどうせんてい)』に「紀州侯より加州侯へ進ぜられし候節の好なり」と記されており、大名家のための懐石道具であった。このため折敷には足が付けられ、すべてが漆器という格を重んじた構成となっている。 折敷(おしき)に四つの椀(飯椀、汁椀、坪椀、平椀)が揃う「四つ椀」の形式をとる。今日の懐石では、飯椀と汁椀の組み合わせに向付が一般的であるが、この懐石具が作られた頃には、こうした形式を用いていたことがわかる貴重な例である。
中国・景徳鎮窯,Jingdezhen ware, China,横河民輔氏寄贈,Gift of Dr. Yokogawa Tamisuke,東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>These porcelain dishes would have been used to serve seasonal delicacies during tea gatherings. They were made at the famous Jingdezhen kilns in China during the 1600s. There, artisans packed clay into molds to create the various shapes, which include a rabbit, fish, shell, musical string instrument, and bamboo shoot.</p>
美濃,Mino ware, Oribe type,東京国立博物館,Tokyo National Museum
織部(おりべ)では破格の造形が数多く生み出された。それまでのやきものが円形を中心としていたところに、このような扇形が作られたこともその一例である。見込みに洲浜状の段を設け、扇骨は透彫で表わされる。そこに緑釉と白釉を掛け分けて当時流行の片身替(かたみがわり)の意匠に仕立てている。
伊万里,Imari ware,東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>Many samurai lords were also tea masters. They favored elegantly designed dishes like these, which they used to serve delicacies to their guests at tea gatherings. To decorate these dishes, an artisan coated them with a black iron-oxide glaze, leaving sections of the white porcelain exposed to depict flocks of egrets.<br /><br /></p>
京都国立博物館 Kyoto National Museum
京都国立博物館 Kyoto National Museum
Videos
中秋の名月の一月後、満月になる手前の月を愛でる風習があります。それが十三夜。京都の茶道の家元では、十三夜を愛でる茶会を開催します。粋な趣向を凝らし、客人をもてなします。<br><br>(この動画は、2014年に放送したものです。)
茶の庭は、露地(ろじ)と呼ばれます。中門(ちゅうもん)は、外露地と内露地を分ける境界線。自然の風合いが生きた素朴な茶室。にじり口から中へと入ります。招かれた客は、わびの心が随所に息づく露地を通って、茶の世界へと入る準備をするのです。裏千家の露地や又隠(ゆういん)は一般公開されていません。財団法人 今日庵 茶道資料館 の2階には重要文化財である、茶室「又隠」のうつしがあり、茶室内を見ることが可能です。また、茶道体験(要予約)をしたりお茶をいただくことができます。<br><br>(この動画は、2011年に放送したものです。)
茶室の主と呼ばれる茶釜。その中で幻の名器といわれるのが「芦屋釜」です。現在国の重要文化財に指定されている茶釜9個の内、8個がこの芦屋釜です。その製作技術は高く、室町時代に数多く作られた釜は厚さ2mm程度、表面には動物や松などが描かれたものもあれば、釜全体に文様が描かれたものもありました。室町時代、芦屋釜は文化の最先端であった京で高く評価され、多くの茶人を魅了しました。しかし江戸時代、その技術は途絶えてしまいました。現在、芦屋釜を復活させようと「芦屋釜の里」では、復元作業が行われています。<br><br>(この動画は、2010年に放送したものです。)
愛知県の濃尾平野の東にある瀬戸市は、陶磁器、瀬戸焼の産地として有名です。1300年の歴史を誇る瀬戸焼は、現在も多くの窯元や工房で美術工芸品から日用の湯飲みや茶碗までが日々作られています。瀬戸の土は柔らかくて加工がしやすく、また高温で焼くと硬く丈夫になることが知られています。夏の終わりには「せともの祭」が開かれます。掘り出し物が多く出品され、全国から多くの人が訪れます。<br><br>(この動画は、2009年に取材したものです。)
山口県萩の伝統工芸、萩焼。400年の歴史があり、江戸時代から茶人たちに愛されてきました。素朴な色合いですが、使うほどに色が変化するという萩焼の魅力を紹介します。<br><br>(この動画は、2014年に放送したものです。)
三重県伊賀市で古くから作られてきた伊賀焼は、自由で生き生きとした形が特徴の伝統の陶器です。伊賀焼はかつて「伊賀の七度焼き」と言われたほど、何度も焼くのが特徴。高温で何度も焼成することによって、独特の風合いを醸し出す陶器が出来上がります。<br><br>(この動画は、2007年に取材したものです。)
「備前焼」の故郷、岡山県備前市伊部(いんべ)地区。大小400以上の窯元で、焼き物が作られています。釉薬は用いず、土の味わいと炎の力で絶妙な模様を生み出す備前焼。自然の力による素朴な形態が心をとらえます。<br><br>(この動画は、2011年に放送したものです。)
信楽焼は、滋賀県甲賀市信楽町を中心に作られる焼き物です。信楽町一帯では、良質な陶土に恵まれ、古くから陶芸が行われてきました。信楽焼の土はガラスのような光沢を持つ長石を含んでいて、焼いた時に独特の模様を作ります。また、腰が強く粘性のある土であるため、浴槽など大物の制作にも適しています。<br><br>(この動画は、2006年に放送したものです)
石川県は日本を代表する漆器の産地。江戸初期、外様大名の大藩だった加賀藩は、江戸幕府の警戒を解こうと、財力を美術工芸に費やす方針を打ち出しました。それにともない、藩が直接運営にあたって作られたのが、「金沢漆器」です。京都の名工・五十嵐道甫、江戸からは清水九兵衛を指導者として招き、洗練を重ねた、金沢ならではの漆器が完成しました。
石川県輪島市で生産される輪島塗。木で器を作り、漆を塗り、蒔絵を施す。手間と工夫の末に、丈夫で美しい漆器を作り上げていく、その工程を紹介します。
全国有数の漆器の産地として知られる福島県、会津若松。安土桃山時代に会津を治めていた蒲生氏郷(がもううじさと)が、漆工芸を奨励したことから、漆器産業が発展しました。400年続く伝統の技が、今も受け継がれています。
可児市は岐阜県の中南部、岐阜市、名古屋市から30キロメートルほどのところにあり、住宅地として発展しています。志野焼は、桃山時代につくられていた、茶の湯などに使った焼き物です。国宝に指定されている「卯花墻」も、この町で作られたとされています。1996年にオープンした花フェスタ記念公園は、前年に開催された花の博覧会の会場跡を整備したものです。公園には、およそ7000品種、約30000株のばらがあります。ばらの他にも、さまざまな種類の花が一年中咲いていて、市民の憩いの場となっています。<br><br>(この動画は、2002年に取材したものです。)
多治見市は岐阜県南部にあります。古墳時代から、やきもの文化が栄え、美濃焼のふるさととして知られています。高級品ばかりでなく日用品も多く作られ、市内には窯元やギャラリーなどが点在しています。モザイクやタイルの生産も盛んです。市内のあちこちでモザイクアートを目にします。<br><br>(この動画は、2006年に取材したものです。)
Past Exhibitions
| Title | shusai | Place | open | close |
|---|---|---|---|---|
Institutions Holding Related Materials
As Japan’s representative museum, Tokyo National Museum collects, preserves, displays, and researches the cultural properties of Asia with a focus on Japan, and also provides educational programs.
Kyoto National Museum collects, preserves, displays, researches and provides educational programs focusing on cultural properties from Heian- through to Edo- period Japan, when the capital was located there.
東急電鉄の創始者・五島慶太が蒐集した日本・東洋の古美術品を収蔵する私立美術館。国宝・重要文化財を含む約5千件の所蔵品は、墨跡、古筆、茶道具などで構成されている。茶道具類は館蔵展などで展示。
三菱財閥の岩﨑彌之助と岩﨑小彌太の父子二代によって設立された美術館。国宝・重要文化財を含む、約6,500点の東洋古美術品を収蔵。年間4~5回開催される展覧会では、中国・南宋時代の国宝「曜変天目」をはじめとする所蔵品をテーマ別に公開。
近代数寄者・畠山一清(即翁)が収集した、日本・中国・朝鮮の古美術品を展示公開する私立美術館。茶道具を中心とした収蔵品約1,300件には、国宝・重要文化財も含まれる。庭内には即翁の好みによる5つの茶室が点在。
三井家伝来の約4千件の美術品を収蔵。国宝・重要文化財に指定された名品を含む茶道具類が収蔵品の約半数を占める。展示室内に三井家ゆかりの茶室「如庵」(国宝)の室内が再現され、茶道具の取り合わせを展示するほか、企画展にあわせて収蔵品を公開。
石川県内の伝統的工芸品全36品目をすべて展示する施設。常設展示では、金沢漆器、山中漆器、大樋焼、茶の湯釜など、石川県の伝統工芸の技で作られた茶道具を展示している。
尾張徳川家伝来の大名道具を収蔵・展示。「名品コレクション展示室」内、「第2展示室 大名の数寄ー茶の湯ー」「第3展示室 大名の室礼ー書院飾りー」では、尾張徳川家伝来の茶道具の名品を鑑賞できる。
裏千家センター内にある茶道を総合的に学ぶことができる施設。掛物、茶碗、花入などの茶道具や関連の美術工芸品、文献史料など、茶の湯に関する資料を展示。2階陳列室には、茶室「又隠(ゆういん)」(重要文化財)の写しが設けられている。
千家十職の一つ「茶碗師」を務める窯元・樂家に隣接する美術館。樂歴代の作品を中心に、茶道工芸、美術品、古文書など樂家に伝わる資料を収蔵・展示。
千家十職の一つ「釜師」を務める、大西家伝来の茶釜や茶道具を展示。京釜の伝統と歴史を学ぶことができる。
表千家不審庵が運営。茶の湯の道具の意味、歴史、見どころなどを詳細に解説。
裏千家今日庵が運営。茶席で必要な道具類を初心者にも分かりやすく紹介。
References
- 茶道資料館 編,淡交社
- Responsibility
- Secondary Usage
except images: check each right statement
- Last updated
- March 6, 2024