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EVACUATE‼

チーム:ばどっこ(東京都立大泉高等学校附属中学校第3学年_尾上珠希, 桑崎里咲, 田村由希) 

はじめに

キュレーション学習の経緯

道徳の授業で『映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間』を鑑賞した。 

前編 (https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/2G7MM8PR4G/)

後編 (https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/Z2L51Q1P7G/)

この映像から立てた疑問をもとに以下のキュレーション学習を行った。


避難に際し、人々はどのように行動したか?

Ⅰ.震災時の自助・共助・公助は成り立っていたのか?

 1‣避難民はどのように避難したのか?(自助・共助)

 2‣当時の消火活動を行う組織の仕組みとは?(公助)

 3‣当時の警察組織の仕組みとは?(公助)

Ⅱ.なぜ当時の人々は呑気に避難していたのか?

 1‣これまでの地震経験との被害の差はどれくらいだったのだろう?

 2‣国全体での災害に対する意識はどのように変わってきたのか?

Ⅲ.家財と避難の関係は?

 1‣人々はどのように避難していたのか?

 2‣地震発生時期近辺で書かれた反省は?

 3‣避難の様子はどのように変わっていった?

避難に際し、人々はどのように行動したか?

関東大震災発生後、人々は大きな荷物を抱えたり、目の前に火が迫る中で呑気に避難したりする様子が紹介されていた。大混乱の様子を見て、「助け合い」「避難意識」「家財の重要性」について疑問に思ったことを、デジタルアーカイブ上の資料を基に読み取り、さらに深めていった。

Ⅰ.震災時の自助・共助・公助は成り立っていたのか?

 自助・共助・公助の三つを合わせて防災三助という。被害を最小限にするために互いに安全を確保し、避難する上で不可欠である。自ら災害に備えたり行動したりするだけでは不十分で、周囲の人と互いに助け合い、公的な支援を受けることが大切だ。つまり、自助、共助、公助を有機的に連携させた防災対策が重要なのだ。関東大震災時では以下の資料から自助・共助は行えたものの、行政機関が統制をうまく取れていなかったように思う。

自助:自分と家族の命や財産を守るために、自ら防災に取り組むこと「自分の身は自分で守る」

共助:近隣住民や被災者と互いに助け合うこと「被災者同士で助け合う」

公助:行政による公的な支援のこと「行政の支援を受ける」

自助は自分1人または家族という小さな単位、共助家族その周辺の人を含む中単位、公助は行政という大きな単位における防災対策のこと。

 当初、自助・共助・公助について調べようと考えていたが、キュレーションの結果、公助に関する資料が数多く見つかったため、公助に対する問いを消防組織と警察組織に分けて資料を作成した。

1▸避難民はどのように避難したのか?(自助・共助)

各々が近くの広場などの開けた場所に避難し、仮小屋を建てたり敷物を敷いたりして避難生活を過ごしていた。しかし、当時は政府の指定避難場所はなく、また、大勢の人々が一斉に避難していたため、速やかに避難するのは困難であった。広場に避難する以外にも、公共交通機関による避難民の輸送が行われており、そこにも輸送しきれないほどの多くの人々が乗り込んでいた。

避難状況 (地域別)

2‣当時の消火活動を行う組織の仕組みとは?(公助)

各地域に設置された消防団が主となり、消火活動を行った。関東大震災後には消防の公的機関が正式に設置された。以下には消防団や公的な消防機関に関する資料を示している。

消防組・消防団

  • 官報 1923年04月20日

    大蔵省印刷局 [編],日本マイクロ写真

     消防組は、国内治安を担当する警察の補助的な役割も果たしながら急速に整備されていったが、常設の消防組織は、東京と大阪にあるのみだった。そこで、大正8年(1919年)勅令「特設消防署規程」により京都市、神戸市、名古屋市、横浜市の4都市にも公設消防署が設置された。当時から消防には消火活動以外に人命救助の役割もあり、国家行政において重要な役割を担っていた。

  • 半鐘

    南理化研究所 特志消防組

     青銅製の小型の釣鐘。お寺の梵鐘(鐘))に比べて小さいので「半鐘」とよばれた。半鐘は、火の見櫓や梯子の上に設置され、火事や天災などの非常時に打ち鳴らし、住民に危険を知らせたり、消防団を招集する合図として使われた。上記の半鐘は、迪宮裕仁親王(昭和天皇。1901-1989)が、大正5年(1916年)11月3日の「立太子の礼」で、皇太子となられた記念に造られた。高岡消防団定塚分団(第3分団)旧蔵。有志の消防組員19名の名前が刻まれている。

 上記の資料より、関東大震災発生以前から地域ごとに消防組・消防団が設置されていたことが分かる。江戸時代、八代将軍吉宗が、江戸南町奉行の大岡越前守に命じ、町組織としての火消組である店火消(たなびけし)を編成替えし、町火消「いろは四八組」を設置させたことが今日の消防団の前身であるといわれている。

 消防団とは現在では地域住民が主となり編成されているものを指すが、現在の消防署の前身も消防団であった。消防団は関東大震災発生以前から半鐘を使用していたことから、組織としては問題なく情報伝達が行われていたと考えられる。

震災後の消防組織の見直し

 関東大震災発生時、二次災害として発生した火災は瞬く間に燃え広がり、甚大な被害をもたらした。人々の混乱の中で、消防組織はほとんど組織として機能しておらず、消火活動を諦める者も多くいた。一方で、消防組織に所属している責任を感じ、消火活動を諦めずに継続した者や自ら消火活動にあたった地域住民もいた。震災後、政府は消防組織に問題があったとし、消防に関する法令の改正・制定を次々と行った。そのため、今日では消防は国家行政の中の重要な一部門となり、いわゆる「公設消防」として成り立っている。

3‣当時の警察組織の仕組みとは?(公助)

警視庁

  • 警視庁統計書 大正12年

    警視庁 編,警視庁総監官房文書課

     関東大震災が発生した大正12年に発行された警視庁の統計書である。組織の事務についてまとめられているページを参照すると当時の警視庁は「總監官房、刑務部、刑事部、保安部、衛生部、消防部、警察練習所、消防練習所」 の8つの部署に分かれていたと表記されている。警視庁の消防部は消防機器の点検・設計や費用の分配など主に消防関係の事務にあたっていて実務を消防署が行っていた。このことから、警視庁も消防署も当時から管理が行き届いていて、組織同士で提携しながら消防に尽力していたことが考察できる。

焼失家屋坪敷累年比較
 これは火災により焼失した家屋について記録した表である。この表を見ると大正12年の総計焼失家屋が他の年に比べ大幅に増加していることが分かる。これは一概には言えないが関東大震災の火災によるものだと考えられる。鮮明に記録されているため警察組織が全く機能していなかったわけではないだろう。

警防団とは

  • 警防団集合記念写真

    撮影者不明 モノクロ プリント102×150mm

    1954(昭和29)年 福島県金山町 HK氏アルバムより 「川口本名警防団解散/川口役場門前二於いて」(アルバムメモより) 警防団集合記念写真 金山町合併時記念写真

  • 置戸警防団旗

     戦時中の国防策の一環で出された昭和14年の警防団令によりそれまでの消防組が改組されてできた消防団の旗。置戸・上置戸・境川の三分団に分れる。

  • 警防団制服

     警防団で用いられていた制服である。夏用の上着。 右胸に「二塚」と書かれた徽章が付いている。

 警防団(けいぼうだん)とは、第二次世界大戦勃発直前の1939年(昭和14年)に「警防団令」(1月25日公布、4月1日施行)を根拠として、主に空襲或いは災害から市民を守るために作られた団体である。

 上記の資料から当時の警察組織の一部は消防組織と提携して消防に務めていたのだと分かる。警防団は消防団と同じく、地域住民によって構成されていたものとされ、国家単位の組織ではない。

 警察制度については「戦前の警察制度は、明治維新後に大陸法系諸国の法制度に倣って作られたもので、国家警察を基本としていた。内務大臣が主任の大臣として、地方長官たる警視総監及び府県知事等を指揮監督し、これらの地方長官は、国の機関としての警視庁及び道府県(警察部)とその下に置かれた警察署等を指揮監督した。また、警察機関の業務の範囲は、現在より広く、時代により違いはあるが、衛生、建築、労働等に関する事務も所掌していた。」と述べられている(警視庁Webサイトより)。

 関東大震災当時、二次災害として火災が発生することは予想外だったにも関わらず、人々は落ち着いていた。しかし、火災が勢いを増すにつれ、消火を諦め避難する者も出てきて消火が遅れる原因の一つとなった。関東大震災発生当時は防災意識が低く、避難訓練も十分に行われていなかった。そのため、逃げ惑う人々の中で組織が十分な統制をとれておらず、公助は完全な状態ではなかったと言える。そんな中、人々は自ら考え、行動し、身近な人々と共に助け合って避難した。よって、公助は完璧ではなかったものの、自助、共助の考え方は人々の中にあり、実践されたと考えられる。当時の人々の助け合うという思考は今日の私たちよりも大いに根づいていたのかもしれない。

Ⅱ.なぜ当時の人々は呑気に避難していたのか?

避難する人々の様子 

以下に示すのは、Ⅱの問いを考えるにあたって前提となる関東大震災発生時に避難する人々の様子である。

  • (帝都大震災画報) 浅草公園花屋敷及十二階之真景

    浦野銀次郎/画 : うらのぎんじろう,浦野銀次郎

    「浅草十二階」:関東大震災は、火災によって被害が拡大した。カラーパネルは震災直後の浅草六区興行街の様子。燃えさかる興行街と、「折れた」凌雲閣の姿が見える。軍の爆破によって完全に壊されるまで、凌雲閣の姿は震災のシンボルと「関東大震災と復興」:明治期に誕生した浅草公園は、浅草寺を中心とし、その周辺の町・村を含め整備された。このうち、明治23年(1890)竣工の凌雲閣と嘉永5年(1852)開園の花屋敷は、浅草公園の象徴であった。画面では、既に地震により倒壊した凌雲閣を背景に、象を避難させる人びとが描かれている。

    多くの人が背中に大きな荷物を抱えて走っている様子が描かれている。

    また、既に火が迫っているにも関わらず、動物を連れて避難している。

    これは、自分たちの命が危険にさらされているのがわかっている状況でも動物たちを連れて逃げていたのは当時は今に比べて動物園の数が少なくゾウやトラなどの動物が貴重な存在だったからではないか。

  • 猛火の中を右往左往に逃げんとする避難民の実況 其一

    教育擁護同盟[ほか]

    大きな荷車にたくさんの荷物を載せて歩く家族たちの様子。

    これだけの量があると荷造りに長い時間がかかってしまう。

    また、それが原因で逃げ遅れ、命を落としてしまった方もいると考えられる。

  • (帝都大震災画報其五)新吉原仲之町通焼火大旋風之実況

    (SK)/画 : エスケー,土谷傳 天正堂 宇田川安高

    「関東大震災と復興」:明治44年(1911)に、吉原大火で甚大な被害を受けた新吉原は、レンガ造などの頑丈な建造物に一新した。しかし関東大震災の際に火災旋風に襲われ、再び焦土と化した。画面では、火災旋風によって家具が舞い上がり、炎がレンガ壁に入って猛威を振るっている様子が描かれている。

    この資料にも荷物を持って逃げる人々の姿が描いてある。

以上の例のように、関東大震災発生時、家具を持ったり動物を連れたりして避難する人々が大勢いた。


当時の人が関東大地震発生時に危機感を持っていなかった原因として、日本では昔から多くの地震が発生していたため、国民がそれらの地震で「地震慣れ」していたことが第一に考えられる。

また、関東大震災以前の防災は現代と比べてそもそも災害について多くのことが分かっていなかったり、人々の意識が不十分なところがあったため、甚大な被害が生じてしまったと考えられる。


以下は、Ⅱの問いに対して1,2の二つの問いを立て、キュレーションしたものである。

1‣これまでの地震経験との被害の差はどれくらいだったのだろう?

関東大震災はこれまでの大地震と比べてマグニチュードはあまり変わらないが、倒壊・焼失家屋や死者・行方不明者において遥かに大きい被害が出ている。

日本は地震が多く、関東大震災前の100年間でマグニチュード6以上の地震が約80回も起こっている。この地震の多さが人々に油断を与えてしまい、結果として逃げ遅れる人々が出てしまったのではないか。

以下に、江戸時代に起こった大地震の例を二つ挙げる。

過去地震との比較

関東大震災

  • 概要

    1923年9月1日の午前11時58分に相模湾北部で発生した地震。

    マグニチュード7.9、死者・行方不明者約14万人(安政地震の約4.3倍、善光寺地震の約)、全壊家屋約12万8266戸、全焼44万7128戸、津波流出868戸


    外部サイトより(消防防災博物館、「大正期の消防 関東大震災」、消防防災博物館、(2023年11月3日取得、 https://www.bousaihaku.com/ffhistory/11315/))

  • 関東大震災記

    東京朝日新聞社 編,東京朝日新聞社

    関東大震災の被害状況や経済界などに与えた影響が記されている。

  • 關東大震災圖

    [大阪日報社/編纂],大阪日報社

    東京南部、神奈川県の大部分が火災の被害を受けた。

  • 関東大震災

    和田写真館 モノクロ プリント 100×152

    1923(大正12)年9月1日 東京都 「大震大火災実況(大正十二年九月一日)新橋駅」

    家屋が倒壊した様子が写されている。

安政の大地震

  • 概要

    1854年11月4日の午前8時頃に発生した安政東海地震と、翌日の午後4時頃に起きた安政南海地震の総称。


    安政東海地震:マグニチュード8.4、推計死者約1900人、倒壊及び焼失家屋約3万戸

    安政南海地震:マグニチュード8.4、推計死者約3万人、全壊家屋約2万戸、半壊約4万戸、津波流出約1万5千戸

  • 安政の大地震大火絵図

    地震発生後、ただちに30数か所で火災が発生しました。」(資料解説より引用)


    この資料から関東大震災と同じく地震直後に大火災が発生したことが分かる。

    安政東海地震は土曜日の朝8時頃、安政南海地震は日曜日の午後4時頃と、(特に安政東海地震は)火を使って料理する人が多くいたことがこの火災の原因の一つとして考えられ、この点は関東大震災と似ている。

善光寺地震

  • 概要

    1847年5月8日に長野県善光寺平を震源とする内陸直下型地震。

    マグニチュード7.4、死者約8600人、全壊家屋約21000軒、焼失家屋約3400軒

  • [善光寺地震摺物]

    関東大震災、安政の大地震と同様、地震の影響で火災が発生した様子が記録されている。

‣国全体での災害に対する意識はどのように変わってきたのか?

まず、時代が進むにつれて地震や火災などの災害対策についてより詳しく書かれるようになった。江戸時代以前には「逃げる」などといったあまり具体的とは言えない書かれ方をしていて、またそれらの情報は非科学的であった。その後、災害が発生するメカニズムが解明されていって、日頃からの防災や実際に災害が起きた時にすべきことがより具体的かつ正確に記されている。

また、関東大震災直後は一般の人々向けではなく建築業などに携わる方々をメインとした災害対策がされていた。その点で、昔から「災害」が身近なものだったことに変わりはないが、日本全体として「防災」がより身近になっているにではないか

災害への備えの移り変わり

関東大震災以前
関東大震災直後
現代
関東大震災以前

防災の重要性については記されていたものの、明治時代以降の資料に比べて被災時の具体的な対処法などは書かれていない。


以下に二つの例を示す。

江戸時代以前の防災

  • 地震用心の歌

    さわ(鯖)がしき(カジキ)なまず(鯰)ふりふり(鰤)うごい(鯉)たら(鱈)

    はや(鮠)くいな(鯔)せよふか(鱶)きささはら(鰆)


    つき(槻)ひ(檜)すぎ(杉)やむかや(榧)と気を

    もみ(樅)きり(桐)ぬまつ(松)もも(桃)どかし(樫)

    地震なき日を


    など「魚」「植物」等の同じ種類の名詞をちりばめた歌で地震に注意することを呼び掛けている。

  • 追加変事用心書(坤)

    今村 九左衛門

    火災・地震等の変事に際しどう対処すべきかを今村家の家族・使用人に向けて説いたもの。

Ⅲ.家財と避難の関係は?

関東大震災当時の避難の様子は今では考えられない行動が多くみられる。それについてすぐに反省の声が上がっているがすぐに避難の様子は変わらない。その反省は少しずつ今の避難の形へと変化している。


以下は、Ⅲの問いに対して1~3の3つの問いを立て、キュレーションしたものである。

1‣人々はどのように避難していたのか?

 地震発生後、人々は家具を持ち出しながら逃げていた。

これは家財の価値が高かったからというわけではなく、命の危機が迫っていることを実感できていなかったり、今後の生活のことを考えて家具を運び出したかったという思いがあったりした結果であると考えられる。

家財持ち出しの様子

  • 地震火災安全避難法

    災害予防研究学会 編,帝都復興協会

    関東大震災の避難の反省と、今後とるべき行動が書かれている。

    家財道具を運び出すのは第二の問題で、家族の生命を安全に避難させることが一番の急務である。」という記述がある。(25コマより一部抜粋)

  • 新潟大火の記録

    中俣正義 モノクロ 35mmネガフィルム

    1955(昭和30)年10月1日 新潟市中央区 「上大川前通6、現イトーヨーカドー丸大裏手付近。家財道具を運び出し必死で避難する人々。」(『思い出ほろろん〈新潟編〉』「新潟大火(6)」)

    椅子や机や布団、箪笥が置かれており、ひもで固定して箱を担いだり背負ったりしている様子が見られる。人で埋め尽くされている。

  • 新潟大火の記録

    中俣正義 モノクロ 35mmネガフィルム

    1955(昭和30)年10月1日 新潟市中央区 「上大川前通6、現イトーヨーカドー丸大裏手付近。家財道具を運び出し必死で避難する人々。」(『思い出ほろろん〈新潟編〉』「新潟大火(6)」)

    煙が近くに迫ってきているが人がたくさんいる。屋根に上っている人も数人いる。

  • September 1, 1923

    鹿子木 孟郎,KANOKOGI Takeshiro

    画面が全体的に暗く、絶望を感じる。女性が子どもを背負って、男性が大きな荷車を引いている。荷車には箪笥や布団、枕が積まれているように見える。どれも燃えやすいものばかりだ。

1923年付近に、火災や地震において家財道具が持ち出される場面が多くみられた。持ち出された家具は運びやすくかつ生活で必要なものが多かったが、それと同時に燃えやすいものだった。


『地震火災安全避難法』の20コマ目に、警官が荷物を捨てなければ打ち斬ると威嚇した際、「無論、誰だって荷物より生命が惜しいに定まって居るから、皆荷物を棄てて、橋の上に逃げた」という記述があった。「命が優先」とはっきり書かれているところもある。

 

 ここから人々は命より家具が大事だったから持ち出したのではなく、その後の生活のことを考えてあくまでも命優先で家財を持っていくという判断をしたのだと考えた。命の危機をその当時は身近に感じていなかったのだろう。

2‣地震発生時期近辺で書かれた反省は?

関東大震災において犠牲者が多かったことの原因の一つとして家財道具の持ち出しが挙げられている。そのことについての反省が書かれている部分を探すと、持ち出しはせず、したとしても最小限でという考えが多くみられた。直後に出された資料も見られ、今まで経験したことが無かった大きな地震に対して人々は思うことがたくさんあったのだろう。

成るべく多く出したいと思うのは人情だが、大地震後の大火災の時などは、家財道具などに目を呉れてはいかぬ。そんな事をして居ると、助かる生命も助からぬことになる。今度の帝都大震火災で本所深川方面に焼死者数万を出し、本所被服廠跡だけでも三万二千余の焼死者を出したのはつまり、家財道具を多く持ち出し或いは手間取ったため火の手が四方に廻り、避道がなくなった結果である。(地震火災安全避難法1923 19コマ目 一部変換あり)』


震火災の場合における家財の搬出は、搬出に十分の余裕がある場合でなければならぬことは言ふまでもない。』『家財に執着してゐる様なことがあったのならば必ず危機が伴ふからである。』(大震火災避難の心得 1924 27コマ目 一部変換あり)



このように、1923年以降の本には家財の持ち出しを否定する意見が多くみられた。

どの資料でも関東大震災で実際に家具を持ち出したことによって避難が遅れた事実が書かれており、それに対しての反省がある。最低限の荷物を持ち大きな家具は持ち出さずに避難するようにとあるが、これは現代の避難グッズや非常用持ち出し袋に通ずるものがあると感じた。

3‣避難の様子はどのように変わっていった?

前の二つの問いから人々の避難の様子はどのように変化したのか調べたところ1964年の新潟地震において改善がみられているように感じた。そこで、関東大震災と新潟地震の間にある避難の様子がよく見られた場面を探した。しかし間ではあまり大きな変化は見られなかった。

避難の様子

関東大震災
新潟地震
新潟大火
関東大震災

最大震度:6

死者数:10万人

家具を持って逃げたり、人が多く集まって混乱している様子が見える。

荷車や馬を使ったり、担ぎ上げたりして大きな荷物を運び出している。

絵からも絶望が感じられる。

被害の規模の違いはあるが、画像から家財を持ち出して大混乱の避難の様子が、経験や対策のおかげで少ない荷物を持ち運び混乱せずに避難できるようになったことが分かった。しかし関東大震災から30年経ち、反省や改善点が書かれた本が出版されているのにも関わらず変化が見られない時期もあった。

経験しないことには変わることができないのかもしれない。直近でも大きな地震が発生したが、今後地震が起きたときに今までの経験から得られた避難の改善点を知ったり調べたりして最大限生かしていくことが重要になるだろう。