Yukichi Fukuzawa
An enlightenment thinker active from the end of the Edo period into the Meiji period who, on the basis of his experiences on three trips to Europe and the United States, stressed the importance of looking outside of Asia for knowledge, and who founded the Keio Gijuku School
1834–1901
Fukuzawa was a Western scholar and enlightenment thinker active from the end of the Edo period into the Meiji period. Born in an Osaka warehouse of the Nakatsuki clan located in Buzennokuni, he was raised as a child of a lower-ranking samurai family. In 1855 he embarked upon Dutch studies at Koan Ogata’s Tekitekisai School and later became the head of the school. In 1858 the Nakatsu clan ordered him to go Edo, where he opened a school for Dutch studies in Tsukiji Teppozu and also began studying English. In 1860 he traveled on the Kanrin-maru as assistant to the naval magistrate in the first Tokugawa diplomatic mission to the United States, a mission that included Kaishu Katsu. In 1861 he went to Europe as an official translator for the Shogunate’s embassy to Europe, and traveled to the United States again in 1867 in a mission to buy warships. Fukuzawa’s three trips to the United States and Europe gave him many opportunities to keenly observe modern civilization. He sought to go beyond the conventional understanding of the West in which Japanese had tried to preserve the Japanese spirit while introducing Western learning, and gain an understanding of capitalist civilization from the spirit behind it. In April 1686 he moved his school of Dutch studies to Shinzeniza in Shiba and called it the Keio Gijuku School (present-day Keio University). He declined an official position with the Meiji government and focused on teaching and writing as a private citizen. He argued that Asia had to overcome its backwardness by acquiring modern Western civilization and leaving Asia behind, that individual independence, freedom, and equality were natural rights given by heaven, and that the Japanese should study practical sciences instead of Confucianism. With works such as Gakumon no susume (An Encouragement of Learning), Seiyo jijo (Things Western) and Bunmeiron no gairyaku (An Outline of a Theory of Civilization), Fukuzawa had a significant influence on intellectual thinking in the early Meiji period. The many thought-provoking articles he published in Meiroku zasshi and Minkan zasshi also played a major role in the thought of the time. The term bunmei kaika (civilization and enlightenment), which symbolized this era of rapid Westernization and modernization, was first used in Fukuzawa’s book Seiyo jijo. He is also known for his criticism of Kaishu Katsu, a former retainer of the Shogunate who held an official position with the new government, in “Yase gaman no setsu” (Spirit of Manly Defiance). His writings are compiled in Fukuzawa Yukichi zenshu (Complete Works of Yukichi Fukuzawa, 21 vols.).
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Books
Works by Yukiti
野戦における兵士の心得となるべき箇条を図入りで説明した懐中便覧。横長の8.4×17cmの小型本。戊辰戦争に際し仙台藩が福沢に翻訳せしめたもの。福沢の著訳中の稀観本で、現在知られている限りでは慶応義塾図書館所蔵本が天下の孤本である。凡例の末尾に「慶応四年戊辰七月」とあるのによって、同年の秋か冬の頃の出版と推定される。
童蒙のために西洋の修身道徳の例話を集めて著述した書。当時の小学校の教科書などに広く使用された。半紙本5冊。明治5五年(1872)の夏から秋にかけて、二回にわけて刊行されたが、福沢家に保存されていた草稿の序文の末尾に「明治四年辛未四月」と記され、これによって見れば、本書は「学問のすすめ」初編よりも先に稿を成し、初編の刊行後に版に附されたものと思われる。
福沢諭吉の代表的著作。明治5年(1872)2月の刊行で、跋文には明治4年12月の日付がある。従来の西洋の文物・制度・学術を客観的に紹介する姿勢から、本書で旧思想の批判、新文明の鼓吹に乗り出した。画像は初編の冒頭で、著名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の文言が記されている。
初編3冊、外編3冊、2編4冊からなり、それぞれ慶応2年(1866)、同3年、明治3年(1870)の刊記がある。福沢の著訳者としての名声を一時に海内に轟かしたもので、広く世に知られ影響力が強かった著訳書の一つ。初編3冊の構成は巻之一に「備考」と題して政治のあり方、税法、国債、紙幣、商事会社、外国交際、兵制、文学技術、学校、新聞紙その他二十数項目を設けて西洋文明の新事物の紹介を試み、巻之二と巻之三にアメリカ合衆国、オランダ、イギリスの項を設けてその歴史、政治、軍備、財政をそれぞれ紹介している。
初版は、慶応3年(1867)刊。掲載書はその初版本で、掲載画像は「世ノ文明開化」と題する章の一部。「文明開化」の語の使用例は本書がもっとも古いとされる。
慶応3年(1867)刊。慶応3年までに日本と条約を交換した11ヵ国、アメリカ、オランダ、イギリス、ロシア、フランス、ポルトガル、プロシヤ、スイス、ベルギー、イタリー、デンマーク各国について簡略な紹介をした小冊子。
明治元年(1868)刊。物理学の初歩を童蒙にわかり易く説いたもので、当時の小学校教科書などに広く用いられた。画像は目録頁。
明治2年(1869)刊。習字の手本とすると同時にその文句を諳誦して自然に万国の地理風俗を覚えさせる趣向で著わしたもの。
明治6年(1873)、慶應義塾蔵版。同年の太陽暦実施に際して急遽執筆、刊行されたもの。
明治8年(1875)刊。福沢の著書中、最も学問的体裁の整った著書で、西洋文明の大要を記して、この文明に向かって進むことが日本の独立を全うする所以を説く。
明治10年(1877)刊。明治政府の中央集権的傾向を批判して、政治を分けて政権は中央政府の手に収め、治権は地方に移譲して人民自治の気風を興すべきことを説いたもの。画像は本文冒頭。
明治11年(1878)4月18日に起稿し、6月18日脱稿、8月19日版権免許、9月に慶応義塾出版社から単行本として刊行された。人民の権利自由について分かりやすく説く目的で著わしたもの。民権と国権を同時に説くことが大切と考え、『通俗国権論』と同時に出版された。画像は目録頁。
明治11年(1878)刊。初編と二編がある。初編は約1か月で書き上げられた。『通俗民権論』を印刷しないうちに、民権・国権を同時に説くことが大切と考えて国権論を脱稿、両書同時に出版した。国権論の起稿は民権論脱稿の6月18日以後、脱稿はおそらく緒言の末尾に記した7月22日であろう。『通俗民権論』と同じく8月19日に版権免許を得て、9月に単行本として出版された。画像は目録頁。
明治11年(1878)刊。慶応義塾から出された「家庭叢談」「民間雑誌」、その他の新聞雑誌に寄稿した短かい文章や演説原稿などを集めた文集。初編上・下、二編一・二(明治12年刊)の4巻からなる。
明治15年(1882)刊。軍備充実を中心に、租税増徴、官民調和の必要を述べたもの。画像は「緒言」の頁。
明治17年(1884)刊。同16年4月5日から7日まで3回にわたって「時事新報」に連載した「全国兵は字義の如く全国なる可し」と題する社説と、翌17年1月4日から7日まで3回にわたる「改正徴兵令」と題する社説をまとめて刊行された。
明治18年(1885)刊。同年7月7日から17日まで10回にわたって「時事新報」社説として発表された。日本の家庭における婦人の地位の解放のために立論したもの。
明治19年(1886)5月26日から6月3日まで8回にわたり「時事新報」社説として発表され、同月単行本として刊行された。「日本婦人論」「品行論」の論緒を発展させたもので、日本古来の風習において、交際は男子の専らにするばかりで、婦人の間に交際の見るべきものなく、男女間の交際に至ってはこれを禁ずるかの如き風のあるのを批判し、今後の文明社会においては男女間対等の交際を盛んにすべきであるとの趣旨を述べたもの。
明治21年(1888)刊。「日本婦人論」「品行論」「男女交際論」などの論緒を発展させ、家庭における婦人の地位を向上解放させるのと同時に、男子の横暴不行跡を抑えようとの意図を以て論出したもの。
明治30年(1897)刊。福沢が随時、客と談話した話題を書きとめておいたものの中から100題を選んでまとめたもの。
明治32年(1899)4月1日から7月23日まで34回にわたり「時事新報」紙上に発表され、同年11月菊判洋紙活字版の単行本として刊行された。貝原益軒の「女大学」の各条項を批判し、あわせて自己の立場からの「新女大学」を書いたもの。
木版小型一冊本。茶色の和紙を表紙とし、左上隅に題箋を貼る。題箋は太罫の枠の中に「会議弁 福沢諭吉/小幡篤次郎/小泉信吉/合著 完」と記す。見返しはなく、本文17丁、それに三田演説会之序、憲法、式日あわせて10丁。奥付、刊記を欠く。
Bibliographies
Related Works
明治29年(1896)11月1日、芝紅葉館で行われた慶應義塾旧友会(三田に移転する前に義塾に学んだ者の同窓会)席上で、福澤が行った演説の一節。この演説で福澤は、義塾が培ってきた一種特別な気風・気品を維持継承して世の先導者となっていくべきことを訴えた。そして、末尾において「慶應義塾は単に一所の学塾として自から甘んずるを得ず。其の目的は我日本国中に於ける気品の泉源智徳の模範たらんことを期し、之を実際にしては居家処世立国の本旨を明にして之を口に言ふのみにあらず、躬行実践以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり」と述べ、その部分を改めて書き残したのがこの書である。「気品の泉源、智徳の模範」の語は、今なお慶應義塾のモットーのひとつとして尊重されている。
一夫一婦論を強調した、明治3年中津留別の書。
岩波映画製作所による複写。「福澤諭吉」岩波書店編集部編 岩波書店1955刊(岩波写真文庫135)6頁に掲載の写真。
明治30年(1897)
明治14年1月6日発行。東京大学の「明治新聞雑誌文庫所蔵資料」の「宮武外骨蒐集資料」の一。
慶應3年(1867)福澤諭吉(34才)は、幕府の軍艦購入委員の随員として、再びアメリカに行き東部諸州の諸都市を見た。このとき購入したのがストーンウォール・ジャクソン号という甲鉄艦で、日本へ回航したときは幕府瓦解ののちであったので、官軍の手に収められその主力艦として東艦と称した。
写真・肖像画など
明治31年(1898)頃
明治24年(1891)頃
咸臨丸乗組員中の福沢諭吉(右端が福沢)。
福澤諭吉が海外の文物に接した最初である。諭吉27才。万延1年(1860)幕府の遣米使節の挙があったとき、軍艦奉行木村摂津守喜毅の従僕として咸臨丸に乗り組んで、サンフランシスコとハワイとに渡航した。右端、福澤諭吉。於サンフランシスコ。
写真左から朝吹英二、福澤諭吉、中上川彦次郎、小幡篤次郎、荘田平五郎、草郷清四郎。
「慶應義塾125年」(1983)7頁掲載写真。万延1年(1860)幕府遣米使節の一員として渡米の際、米サンフランシスコ写真屋の娘と共に写した。
明治26年(1893)
書簡
Past Exhibitions
| Title | shusai | Place | open | close |
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External Links
大分県にある福沢諭吉の記念館。諭吉が住んだという現存する旧居も見学可能。
Fukuzawa Memorial Center for Modern Japanese Studies, Keio University collects and preserves materials relating to Keio University, its founder Yukichi Fukuzawa and the alumni. By looking at the influence of Fukuzawa and Keio on Japan's modernisation through education and academia, while remaining independent from the private sector, we can look at Japan's modernisation from multiple perspectives and in three dimensions. In May 2021, we opened the Fukuzawa Yukichi Memorial Keio History Museum.
福沢諭吉も学んだ国史跡・重要文化財「適塾」と、緒方洪庵とその門人に関する歴史的遺産を継承し、適塾の運営・資料保存・調査研究を行い、適塾に縁の深い大阪とオランダに関する学術研究を深めてゆくことを目的として設置。
慶應義塾大学メディアセンターが所蔵する貴重資料や特殊コレクションを公開するサイト。電子化されたコレクション資料には、解説と目録を付す。
福澤諭吉著作の初期版本55タイトル、全119冊の全文をデジタル化し公開。
慶應義塾のホームページ。
国立国会図書館が所蔵している史料を用いて、中高生が歴史を学び楽しめるよう工夫して作成した電子展示会。
日本の近世から昭和にかけて各分野で活躍した有名人の書簡や葉書等の直筆資料を紹介。
References
- サンプルページ「福沢諭吉」の項。
- サンプルページ「福沢諭吉」の項。
- サンプルページ「福沢諭吉」の項。
- 加藤友康, 瀬野精一郎, 鳥海靖, 丸山雍成 編,吉川弘文館
- 歴史学研究会 編,岩波書店