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『近世名士写真』近世名士写真頒布会, 1935 / 国立国会図書館デジタルコレクション

Ryoma Sakamoto

Patriot toward the end of the Edo period who succeeded at rallying anti-Shogunate factions; founded the company Kameyama Shachu (later the Kaientai)

1835–1867

A patriot at the end of the Edo period in the sonno-joi (“Revere the emperor, expel the barbarians”) faction, Ryoma Sakamoto was born in Tosa-gun, Tosa Province (now Kochi City, Kochi Prefecture) as the second-born son of a country samurai in the Kochi domain. Commonly known as Ryoma, his real name was Naonari. He also used the alias Umetaro Saidani after leaving the domain. Though from a wealthy background, as the family was involved in sake production, he turned the family business over to his younger brother and left for Edo in 1853, studying swordsmanship in the Hokushin Itto tradition from a younger brother of Shusaku Chiba. In 1861 he joined the Tosa Kinno party established by Zuizan Takechi and others, but left the Kochi domain the following year, dissatisfied with the policies of the domain. Arriving in Edo by way of Osaka and Kyoto, he became a follower of Kaishu Katsu, learning sailing and working to help establish Katsu’s Kobe Naval Training Center. As a result of the coup d’état that occurred on the 18th day of the 8th month in 1863, the Shogunate engaged in suppression, which led to Katsu’s loss of position and the dissolution of the training center. Under the protection of the Kagoshima domain, obtained through Takamori Saigo, to whom he had been introduced by Katsu, Sakamoto founded the company Kameyama Shachu in Nagasaki, with their assistance. This company would later become the Kaientai (Naval Auxiliary Force). Running a trading business, he also got involved in mediating sales of weaponry by the Glover Trading Co. to the Choshu clan. With Shintaro Nakaoka, he helped establish the Satsuma-Choshu Alliance in 1866 and thus succeeded in uniting anti-Shogunate factions. In the second Choshu expedition, he commanded Choshu naval forces. He embraced the concept of a parliamentary system headed by the Emperor, laid out in his Senchu hassaku (Eight Point Program Composed aboard a Ship), and he persuaded Toyonobu Yamanouchi, daimyo of Tosa, of this plan. Thus he is said to have played a large role in helping to transfer power back to the Emperor in 1867. He later drew up further plans for the new form of government, but was killed by an assassin from the Shogunate’s Mimawarigumi special police force in Kyoto along with Shintaro Nakaoka.

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公文菊仙(1873-1945)は久保田米僊門下の日本画家。昭和11年(1936)の作品。

上野彦馬が撮影した写真を山口直が複写した原板。。長崎滞在中の慶応2年(1866)と推定されるが、元治元年(1864)という説もある。幕末の長崎に出入りした勤皇志士たちは上野撮影局で写真をとるものが多かった。原画は13.8×9.3cm。

慶応年間に、上野彦馬の写真館で撮影された写真。中の一枚に、坂本龍馬の肖像写真にも見える黒い台が写っている。露出中の体のぶれを防ぐためものだが、『写真の開祖 上野彦馬』(産業能率短期大学出版部・1975年)の監修者の一人である上野一郎氏によれば、この台は後に白く塗り直されたらしく、黒い台で撮影された写真は、現在までに龍馬、後藤象二郎、龍馬の同志渡辺剛八、佐賀出身で日本赤十字社の創立者である佐野常民など7枚しか確認されていない。

右から4人目が坂本龍馬。その右となりは陸奥宗光。

寄贈者:坂本彌太郎

近江屋井口家に伝来した坂本龍馬着用の紋服。明治39年(1906)および大正5年(1916)の坂本中岡の墓前祭に際して出品展示された。昭和15年(1940)に恩賜京都博物館に寄贈された。黒羽二重。坂本家家紋入り。

坂本龍馬の父八平こと坂本長兵衛が記した先祖書。戦国時代末に山城国から戦乱を逃れて土佐才谷村に来住した坂本太郎五郎にはじまり、明和8年(1771)に新規に郷士となった坂本直海~八蔵~長兵衛に至る藩での仕事の履歴が記される。本署は天保8年(1837)に藩庁に提出した書類の控。この先祖書につづいて3通の坂本家家系図が貼られている。

慶応3年(1867)11月15日、京都河原町の醤油商近江屋の二階で坂本龍馬と中岡慎太郎は刺客の手に斃れた際、その現場の床の間にかかっていた掛け軸。板倉槐堂の筆になる「梅椿図」で、軸の下方に数滴の血痕が残る。本紙の上側には海援隊士長岡謙吉による文章が書かれている。もと近江屋井口家に伝来したもので、坂本家に引き継がれたという。

龍馬使用と伝える青銅鏡。もと近江屋井口新助の妻スミの鏡を近江屋滞在中の龍馬が借りて使っていたと伝わる。箱書は「阪本龍馬御鏡」である。

昭和6年(1931)に北海道の坂本弥太郎氏から恩賜京都博物館に寄贈された坂本龍馬関係文書3巻。冒頭写真は「坂本龍馬桂小五郎遺墨」と題されたもので、坂本龍馬が実家の坂本家に出した手紙を中心としている。残りの2巻は「坂本家先祖書並系図」と「龍馬乃遺墨雄魂姓名録並海援隊日誌秘記」である。いずれも坂本家・海援隊などに関わる貴重な記録類。

龍馬が江戸の千葉道場へ出立する際に父八平が与えた修行中の心得。嘉永6年(1853)の「三月吉日」付けの文書。このとき龍馬は19歳。「一、片時も不忘忠孝修行第一之事、一、諸道具に心移り、銀銭不費事、一、色情にうつり、国家之大事をわ(す)れ心得違有間じき事」の三箇条。

慶応3年(1867)4月から7月にかけての海援隊の記録。龍馬の海援隊長任命状写、海援隊約規、新政権構想の素案などを含む。特に6月下旬に土佐藩と薩摩藩の間で話し合われた新政権構想が重要である。のちの大政奉還建白書につながる内容をもつ。筆者は海援隊の長岡謙吉か。

「諸雑公文書」所収。

書状

土佐脱藩後1年を経て郷里の姉乙女宛に初めて出した手紙。勝海舟の弟子となり海軍創設に尽力する充実したよろこびが文面にあふれている。卑近なたとえをふんだんに使っており、当時としては型破りの文章である。坂本龍馬の手紙を代表するもののひとつ。 文久2年(1862)3月、龍馬は土佐を出奔(脱藩)し10月頃には旗本勝麟太郎(勝海舟)の思想に共鳴し「弟子」となった。勝のもとで海軍創設に従事することになったのである。「うんのわるいものは風呂に入ろうとして金玉をつめ割りて死ぬものもいるが」などと卑近な例えで自分の運の強さを表現している。読んだ家族も笑ったことだろう。勝麟太郎のことを「日本第一の人物」と表現し、「かねてから思うところ(海軍修行)に精を出している」と記している。(2016年 坂本龍馬展図録 宮川)

神戸海軍操練所時代の手紙。下関での外国艦船報復攻撃の件や「日本の洗濯」論、姉乙女が出家して他国へ出たいとの手紙へのからかいを含んだ諫める内容など。掲出は写真の下段で、文久3年(1863)5月、長州藩の砲撃被害を受けた外国船を幕府が江戸で修理していることに怒り、「右申所の姦吏を一事に軍いたし打殺、日本(ニツポン)を今一度せんたくいたし申候事ニいたすべくとの神願ニて候」と書いている部分。

伏見の寺田屋から土佐の姉乙女とおやべ宛に送った長文の手紙。龍馬の妻となった楢崎龍(おりょう)の身の上や性格について知らせている。慶応元年(1865)9月には薩摩藩の支援で長崎において亀山社中を結成し、薩長同盟へむけて奔走を続けていた。坂本龍馬の手紙の中でも長いもののひとつ。もとは表裏に文章が書かれたものを2枚に剥いで再構成したもの。掲出は、楢崎龍について、妹が悪者に騙されて大坂に「女郎」に売られたと知り、刃物を懐に悪者二人と大喧嘩して妹を取り返したことを記す部分。「女曰ク、殺し殺サレニはるばる大坂ニくだりてをる、夫ハおもしろい、殺セ殺セといゝけるニ、さすが殺すというわけニハまいらず、とふとふ其いもとおうけとり、京の方へつれかへりたり」とある。

慶応2年(1866)12月4日に土佐の姉乙女宛に出した手紙。寺田屋での遭難から鹿児島への新婚旅行の様子、第2次幕長戦争、西郷吉之助のことなど多岐にわたるその年の出来事を知らせる内容。特に霧島山登山の様子を絵入りで紹介している部分(掲出)は有名。

龍馬書簡の写。慶応2年(1866)12月4日、兄権平および家族一同宛に長い手紙を書いた。現存はしないがこのような写が残る。この記録はその手紙の一部。慶応2年正月23日深夜(24日未明)に伏見寺田屋で奉行所の捕吏に襲われた様子を詳細に記述した部分である。龍馬が詳しく書いてくれたおかげでその夜になにが起きたのか、現在の我々にもよく分かる。龍馬の文章力の高さを知ることのできる一文。

姉乙女からの手紙に対する返事。手紙の中盤では龍馬自身の現状を岩礁にうちあげられた海亀にたとえて、「扨々世の中と云ものハかきがら計である、人間と云ものハ世の中のかきがらの中ニすんでおるものであるわい」(掲出箇所)と述べる。後半には(船の代金の)「7千800両が無くて「ヒイヒイ」と困っていたら薩州の小松帯刀という人が出してくれました。神も仏もあるものです」と書いている。

平成12年(2000)に京都府向日市の井口新助氏から京都国立博物館に寄贈された一巻。冒頭に慶応3年(1867)5月28日付のおりょう宛の龍馬書簡が貼られている。龍馬は妻おりょうにも多くの手紙を書いたはずだが、現存するのはこの一通のみ。イロハ丸事件の交渉のこと、後藤象二郎と上京予定であることなどを下関のおりょうに知らせている。明治はじめに京都に戻ったおりょうがこの近江屋の井口新助方に一時期滞在していたことを示すもの。その余の書簡は慶応4年(1868)前半頃の海援隊士書簡類。長岡謙吉書簡ほか陸奥宗光の借用証など。

慶応3年(1867)9月末に土佐帰郷をはたした龍馬が土佐を発って入京した直後、土佐の兄坂本権平に出した手紙。大政奉還直前の京都の不穏な情勢を伝えている。故郷に出した最後の手紙。写真下段右側の手紙。慶応3年9月末、龍馬は脱藩以来5年ぶりに家族に再会した。数日滞在ののち京都へ向かったのだが、土佐を離れる際に兄から「着いたら必ず手紙をよこせ」ときつく言われていたのであろう。龍馬は「現在の京坂の様子は以前とはよほど変化していて、日々ごてごてとしていますが、世は乱れようとしてなかなか乱れないものだと皆々申しあっております」と緊迫する京坂の雰囲気を記している。

龍馬の甥で海援隊士の高松太郎が慶応3年(1867)11月15日の近江屋での龍馬の遭難死を土佐の坂本家へ知らせた手紙の写。天満屋での報復事件にも触れている。写真上段の手紙。

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  • 坂本龍馬に関する資料を収集・展示し、近代日本の黎明に生涯を捧げた坂本龍馬の業績を顕彰するために、平成3年(1991)11月に開館。

  • 国立国会図書館が所蔵している史料を用いて、中高生が歴史を学び楽しめるよう工夫して作成した電子展示。

  • 国立国会図書館が所蔵している史料を用いて、中高生が歴史を学び楽しめるよう工夫して作成した電子展示。

  • 国立国会図書館による電子展示。日本の近世から昭和にかけて各分野で活躍した有名人の書簡や葉書等の直筆資料を紹介する。直筆資料の画像とともに人物の肖像や解説文を掲載し、国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)で全文を掲載しているものにはリンクを設定している。一部の資料には翻刻を添えている。

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References

  1. サンプルページ「坂本龍馬」の項。
  2. サンプルページ「坂本竜馬」の項。
  3. サンプルページ「坂本竜馬」の項。
  4. 加藤友康, 瀬野精一郎, 鳥海靖, 丸山雍成 編,吉川弘文館
  5. 歴史学研究会 編,岩波書店
  6. 対外関係史総合年表編集委員会 編,吉川弘文館