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没後40年 中間冊夫展 ヒューマニズムの軌跡

2025年12月から2026年3月に三宅美術館(鹿児島市)にて開催した、「没後40年 中間冊夫展 ヒューマニズムの軌跡」のオンライン展覧会です。公開にあたり、内容や構成に一部変更を加えています。

ごあいさつ

鹿児島県南さつま市出身の画家 中間冊夫(なかま さつお)は、一貫して人間を題材とし、ありのままの人間の姿やその心情をデフォルメされたフォルムと独自の絵肌によって表現してきました。

鹿児島県出身者では海老原喜之助に次いで独立美術協会の会員に迎えられ、また多くの後進に影響を与えた画家でありながら、東京を拠点に活動したこともあり地元鹿児島では知る人ぞ知る画家となっています。

没後40年の節目に開催する本展では、美術のあり方が大いに揺れ動く時代においても独自の表現を貫いた画家のあゆみを、当館収蔵作品より紹介いたします。あわせて生涯にわたり心を寄せ続けた、ふるさと鹿児島への想いが伝わる作品も展示いたします。


※独立美術協会:

1930年、里見勝蔵、児島善三郎、林武ら14名により結成された美術団体。須田国太郎、小林和作、海老原喜之助、野口弥太郎、鳥海青児ら近代美術史に輝く画家を数多く輩出。

中間冊夫ポートレート
1908(明治41)年10月10日、鹿児島県加世田市万世町(現・南さつま市)に生まれる。 父の仕事の都合により14歳で上京し、川端画学校、1930年協会研究所にて学ぶ。 独立美術協会の草創期より出品を続け、1936年独立賞、1940年会員に推挙される。 1963年第1回児島賞。 独立美術協会生え抜きの作家として指導的役割を果たし、1979年同会有志11名と「十果会」(とおかかい)を結成。 また1957年から1981年まで武蔵野美術大学で教鞭をとり,多くの後進を指導した。 1985年3月4日、脳卒中のため逝去。

第1章 ふるさとを描く

〈ふるさと鹿児島の風景〉

中間は中学2年生の春に父親の仕事の関係で鹿児島から上京し、以後は東京を中心に活動しました。戦後の混乱や後進の指導で忙しかったことから鹿児島を訪れる機会が少なかったものの、中間の脳裏にはいつもふるさと万世の風景がありました。


1973年5月、母校の万世小学校へ寄贈する作品を制作するために帰郷(当時64歳)。高台にある慰霊塔(南さつま市加世田唐仁原)付近から見た街並みを描いた「万世風景」を制作しました。このときの取材で「50数年経った今でも、昔と少しも変わっていない。…(中略)…わが故郷がこんなにすばらしいとは、これまで思わなかった。加世田を愛しているので、これからは、たびたび帰郷したい」(南日本新聞1973年6月6日朝刊)と語り、以後は機会があるたびに鹿児島を訪れるようになりました。


ふるさとでの時間を通して、中間は開聞岳(かいもんだけ)に魅せられるようになりました。

1978年ごろの春、前畑省三(独立美術協会会員)の案内で開聞町(現・指宿市)のそうめん流しに出かけたとき、唐船峡(とうせんきょう)の菜の花畑の向こうに姿を現した開聞岳にいたく感銘を受け、以来とりつかれるようになったといいます。

中学生時代、寄宿舎から自宅への帰り道に見えていた思い出の山ではあったものの、近くまで行く機会がこれまでなかったそうです(南日本新聞1982年7月15日朝刊)。


以後は帰郷のたびに開聞岳をスケッチするのが習慣となり、「故郷の山、開聞岳を死ぬまで描いておきたいと思うようになりました」(南日本新聞1980年2月27日夕刊)と語り、最終的には油彩作品を描きたいと思っていたようです。

なお桜島もしばしば描いていますが、「確かに面白い対象だし、多くの人が描いているが、前景に建物が入らない開聞岳の方を私は好む」(南日本新聞1982年7月15日朝刊)と開聞岳に軍配を上げています。

開聞岳
素描 東シナ海に浮かぶ開聞岳の姿より、本作品のような地続きの姿を気に入っていたという。
桜島A
素描 鹿児島湾を挟み、手前には鹿児島市街地の近代的な風景が立ち並ぶ。
加世田小湊の松林(未完)
油彩・キャンバス 1973年6月制作 入り江の向こうに松林や野間岳らしき山が見える。 若い頃の中間は、故郷加世田の風景について「どこまでも続いた砂丘があって海の単調さと松原だけは今でも描きたいと思ったことがない」(中間冊夫「自画像・絵と文」「美術手帖」№89、1954年11月号)とも語っていたが、年齢を重ねるにつれて望郷の念が強まったようだ。 中間は故郷の風景をどのようなタブローに仕上げようと思っていたのだろうか。

〈ふるさとのモチーフ〉

中間は生涯にわたり人物をメインモチーフとしましたが、カニや魚、タデの花といった少年時代を思い起こさせるモチーフも描いています。

ふるさと万世は海辺のまちだったためか魚やカニをしばしばスケッチし、特にカニについては造形におもしろさを感じたらしく、100号もの油彩作品を描いています。

また、あまり花を描かない画家でしたが、タデの花は繰り返し描いています。「あかまんま」という別名が示すように、子供時代に赤飯に見立てて遊んだ思い出のある花だったそうです。

魚A
素描 半具象的な作品で知られる作家だが、時に写実的なスケッチも残している。
魚B
素描
かに
素描
かに
水彩・色紙
あかまんま
油彩・キャンバス 「あかまんま」というタイトルから、モチーフへの親しみの念をうかがうことができる。
草むら(あかまんま)
油彩・キャンバス

第2章 ひとを描く

戦後から最晩年までの画業のあゆみを、ライフワークである「人物」に着目して振り返ります。

①1950年代~1960年代

〈主要なできごと〉

草創期から独立美術協会に参加した中間は、1935年海南賞、1936年独立賞と入賞を重ね、1940年には31歳という若さで独立美術協会会員に迎えられます。期待の若手と評されていましたが、1945年の東京大空襲により自宅が焼失し、戦前の作品のほとんどを失ってしまいました。


終戦後は苦しい生活の中ひたすら描き続け、1951年に自宅を再建した頃から独立展以外の場でも作品発表を活発に行うようになります。独立美術協会会員によるグループに参加したほか、北海道から鹿児島まで全国各地で個展を開催し、生涯にわたり精力的に作品発表を行いました。


1957年に武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)講師に迎えられ、本格的に後進育成に携わるようになります(1962年武蔵野美術大学造形学部教授就任)。

1963年には第31回独立展に「赤の人物」「黒の人物」を出品し、第1回児島賞(前年に亡くなった創設会員・児島善三郎を記念して設けられた賞)を受賞。

さらに1966年には「青の人」(第33回独立展)が優秀作品として文部省に買い上げられるなど、創設会員の次世代を担う地位を着実なものにしていきました。

〈画風の変遷〉

戦後から1950年代前半にかけては、少年や婦人像といったモチーフを抑制された色彩と大らかな筆致によって描いていましたが、1950年代半ばから背景に絵具を厚く盛り上げた線の重なりが現れ、モチーフそのものも線の重なりによって表現するようになります。


1950年代後半から1960年代前半には抽象的な傾向が強まり、人体から連想するイメージを絵具を何層にも塗り重ねた絵肌によって表現しました。

この変化については、「自分ではどんどん変わって抽象性が強く出て来そうです。だが具象としてのフォルムというものに魅力をもっているんです。それをどういうふうに画面にして行くかと自分で求めてゆくことが私の課題です。」(「アトリエ閑談」『武蔵野美術』№25、武蔵野美術大学出版編集室、1957年10月)と自ら語っているように、抽象と具象のあいだで模索段階にありました。


やがて、「純粋抽象でなく、〈新具象〉をねらっていきたい」(南日本新聞1962年1月1日朝刊)と自ら宣言したとおり、具象表現へ戻っていきました。

1963年頃から重厚な絵肌を用いて、再び全身像を描くようになります。最初は岩盤や丸太を思わせるような角ばったフォルムの人物でしたが、次第に手足が細長くなり、また顔だちも描かれるようになりました。

1950~60年代の作品

妻・佐川敏子と長男をモデルとした作品である。第22回独立展。

中間は初期のころ労働者をしばしば描いており、戦前の作品を彷彿させる題材である。 他方で人体表現の省略が進み、抽象への関心も感じさせる。第24回独立展。

制作当時、中間の画風は抽象と具象との間で模索段階にあった。 光を探しながら歩みを進める人物の姿は、理想とする絵を追い求めて制作に打ち込む中間自身とも重なる。第4回日本国際美術展。

1950年代末には抽象的な傾向が一層強まり、人体から連想するイメージを自由に展開させていた。第27回独立展。

第27回独立展。

第28回独立展。

第29回独立展。

1963年ごろから中間は具象絵画へと回帰し、再び全身像を描くようになる。第31回独立展児島賞。

同年に描かれた「黒の人物」とは異なり、絵筆の動きによってわずかながら顔立ちが描かれている。第31回独立展児島賞。

第6回現代日本美術展。

② 1970年代~1985年

〈主要なできごと〉

 海老原喜之助(1970年)、鳥海青児(1972年)、林武(1975年)と独立美術協会の中心メンバーが相次いで亡くなるなか、中間は草創期からの会員として指導者的役割を果たしました。また武蔵野美術大学で後進指導にあたりました。

 1973年には独立美術協会会員で公私ともに良きパートナーであった妻・佐川敏子に先立たれます。

 1975年、11年ぶりに独立展巡回展を鹿児島で開催し、以後およそ3年おきに開催。巡回展のたびに帰郷しました。

 1979年、独立美術協会会員有志によるグループ「十果会」に参加し、長老メンバーとして毎年初夏のグループ展に出品しました。

 1981年に武蔵野美術大学教授を退官し、名誉教授となります。

 後進の育成に携わり、また自身の画風も新たな局面にさしかかったさなか、脳卒中のため1985年3月4日その生涯を終えました。

〈画風の変遷〉

 1960年代後半から手足が長く女性らしいフォルムの人物を描くようになり、1970年代には三角座りをする人物や、横たわり物思いにふける人物を描いた代表作「うずくまる」シリーズがはじまります。

 それまでの人物表現は頑丈な体格と重厚な絵肌による迫力あふれる表現であったのに対し、1970年代以降は控えめな表情やしぐさ、複雑に混じり合う色彩や陰影によって人物の心情を想像させる、精神面に迫る表現へと変化しました。晩年、中間は「虚飾をはぎ取った人間。その心象をどう画面に盛り込むか、それが一番の関心事です。」(南日本新聞1980年2月27日夕刊)と語っています。また岩肌のように分厚かった絵肌は徐々に薄塗りになっていきました。


 1980年代になるとかつての重厚感あふれる画面から一変した、伸びやかなタッチや薄く溶かした絵具のにじみを活かした作品も目立つようになりました。「うずくまる」シリーズを探求するとともに、沖縄の城や亀甲墓に着想を得た大型の風景画作品を発表しました。

1970年代~1985年の作品

うづくまる

伏目かちにこちらをみつめるモデルの、やや緊張気味な様子やナイーブな内面が慎重な筆致によって描き出されている。 縦53.0㎝、横45.5㎝と小型の作品でありながら、「うずくまる」シリーズの中でも光るものをもつ作品。

室内

人物の背景にはほとんど物が描かれないのが中間のスタイルだが、1974年前後は椅子やテーブル、瓶などが登場する。中間は人物と空間との関係性を重要視しており、小道具を置くことでどのような効果が生まれるのかを試みたのだろうか。第42回独立展。

立像

「うずくまる」シリーズに取り組む一方で、独立展では1974年から79年にかけて立つ人物を描いた。第43回独立展。

脱衣

第45回独立展。

室内の人

第46回独立展。

雲と人

第47回独立展。

腰かける人

第1回十果会展。

うずくまる

第4回十果会展。

並ぶ二人

孫娘をモデルとした作品。 中間は長男一家と同居し、孫娘たちはアトリエを自由に出入りしていたという。第6回十果会展。
1983年 油彩・キャンバス 沖縄県国頭郡に位置する世界遺産・今帰仁城(なきじんぐすく)を舞台とした作品。一筋の道が夕暮の空へとつながっていくかのように伸びている。その様子は道があたかも西方浄土への入り口であるかのように想像させる。 晩年関心を持っていたという、哲学的なテーマと沖縄特有の風景が融合した作品である。 第51回独立展。