明治時代の舞踏館、鹿鳴館のすがた
明治維新で井上馨の提案によって創設された鹿鳴館。創設の裏には明治政府のどのような考えが潜んでいたのだろうか?
こんにちは。このギャラリーを制作した館長です。この作品では明治維新の頃に井上馨の提案により創設された鹿鳴館についてその頃の時代背景や欧米列強を中心とする外国との関わりも兼ねて詳しく調べ、明治政府がなぜ鹿鳴館を創設したのか?そして、鹿鳴館では何をしていたのか?この疑問を時系列にしながら追っていきます。
幕末から不平等条約撤回までの歴史
江戸幕府が1858年に締結したアメリカ、イギリス、オランダ、ロシア、フランスの5ヶ国との修好通商条約である日米修好通商条約、安政の五カ国条約は、いずれも領事裁判権(治外法権)を認め、関税自主権が無いという点などで不平等なものであったため、江戸幕府からそれを継承した明治政府にとって、条約改正は最も重要な外交課題となった。
そのため、これ以上他の国と不平等条約を結ばないように、日本の近代化を勧めるため1871年、岩倉具視を大使とする岩倉使節団を欧米に派遣し、寺島宗則・井上馨・大隈重信・青木周蔵といった外交担当者が交渉を重ねた。
そして、1883年に外相の井上馨の提案で、ジョサイア=コンドル(英)の設計をもとに創設された。鹿鳴館が創設された理由は、1つ目は不平等条約の改正。領事裁判権の撤廃や関税自主権の回復などの不平等な条約の改正交渉を有利に進めるため。2つ目は「文明国」へのアピール(欧化政策)。日本が欧米と同等の文化的なレベルにあることを国際的に示し、外国人(特に対等に接する国賓や外交官)を接待する社交場が必要とされため。3つ目は欧化政策の推進。政府高官や上流階級の婦人たちが洋風の礼服や社交ダンス、舞踏会を通じて西洋の風俗・習慣を実践し、欧化主義を象徴する場所として利用された。
岩倉使節団や外相の粘り強い交渉の末、1894年(明治27年)に、陸奥宗光外相主導により日米通商航海条約を締結、イギリスなど他国とも同様の条約を締結して、領事裁判権の撤廃に成功した(実施は1899年)。そして、関税自主権の回復は、1911年(明治44年)、小村寿太郎外相が、日米通商航海条約の改定(新日米通商航海条約)によって達成された。
これまで鹿鳴館が創設された理由を書いてきましたが、実際欧米の目にはどのように映っていたのでしょうか。
上の図は、トバエ06号(1887年)に掲載された鹿鳴館の風刺画(ビゴー作)です。大きな鏡の前に男女のカップルが立っています。鏡の前でポーズを取っている男女は、いかにもカネのかかっていそうな立派な風体をしていますが、鏡に映っているのは首から上だけで、首から下は服を描いておらず、斜線が描かれているだけ。さらに、顔は人間の顔ではなく、猿の顔になっています。風刺画の左上には「名磨行」と書かれていますが、これは「なまいき(=生意気)」の意味です。当時の日本は鹿鳴館時代で、欧化主義が広まり始めた時代でした。外国との社交場として使用された鹿鳴館では西欧式の舞踏会が開かれ、祝賀会行事や数々の国内行事が催されていました。しかし、当時の日本では西欧式舞踏会のマナーやエチケットを知る人はあまりおらず、服の着方や物の食べ方、舞踏の仕方などは西欧人の目からは様にならないものばかりでした。風体だけ立派に整えていたとしても、マナーを全く知らない日本人は西欧人にとって滑稽であり、単なる猿真似にしか見えなかったというわけです。
では、鹿鳴館による外交問題の解決のための文明化は成功したのでしょうか。
1. 外交的目標(条約改正)の失敗
鹿鳴館の主な目的は、欧米諸国との不平等条約(領事裁判権の撤廃や関税自主権の回復)を改正するため、日本が「文明国」であることをアピールすることだと書きました。しかし、井上馨の提案した欧化政策は、国内の保守層や民権運動家から激しい批判を浴びました。また、条約改正の引き換えとして提示された内容(裁判に外国人裁判官を任用するなど)が不平等であると見なされ、結局、条約改正は成功しないまま井上馨は失脚しました。
2. 国内の反発と風俗の乱れ
日本の上流階級が欧米風の社交ダンスや慈善バザーに熱中したことは、欧米化に批判的な人々から「風俗の乱れ」として強い嫌悪感を持たれました。 そして、当時総理大臣だった伊藤博文も井上馨の急な文明化政策は目に余ると言ったり、農商務大臣の谷干城が方針に反対して辞任したりするなど、政府内にも亀裂を生みました。 最終的に、鹿鳴館外交は欧化政策への反動や条約改正交渉の停滞を受け、明治23年(1890年)に役割を終えて閉鎖されました。
しかし、短期的には失敗でしたが、ジョサイア・コンドルが設計した西洋建築は、日本が欧米文明を積極的に取り入れた証拠や、後世に西洋文化やマナーを伝える機会を与えました。
結論として、条約改正を早期に達成するという政策目標は達成できなかったため、政策としては失敗となりました。そして、1940年に解体され、現在は鹿鳴館があった現在の東京都千代田区内幸町1-1-7付近に「鹿鳴館跡」の碑が建てられています。
では、どのような政策をしていれば国民にも認められる欧米化政策ができたのでしょうか?
一概には言えませんが、鹿鳴館に象徴される欧米化が国民に認められなかった最大の理由は、それが「不平等条約の改正という目的のための、うわべだけの模倣」に見えたからだと先ほど説明しました。
もし、以下のような「日本の実情や誇りに配慮した形」で政策が進められていれば、国民は納得してくれたと考えられます。
1. 「和魂洋才」をベースとした段階的な導入
鹿鳴館のように、上流階級だけが舞踏会に興じるスタイルは、一般国民から「媚態(びたい)外交」と批判されました。
- 改善策: 西洋の「技術」や「制度」は積極的に取り入れる一方で、生活様式や精神面では日本の伝統を尊重する「和魂洋才」の姿勢を明確に打ち出すべきでした。
- 具体例: 洋服やダンスの強要ではなく、まずは公衆衛生や実益のある科学技術(鉄道、通信など)の普及に重点を置くことで、国民も欧米化の恩恵を実感できたはずです。 あんぱんも良い例ですね。
2. 国民意識(ナショナリズム)の活用
当時は自由民権運動が盛んで、国民は「自分たちの意見が政治に反映されること」を求めていました。
- 改善策: 欧米化を「一部の特権階級の特権」にせず、教育(学制)や憲法の制定を通じて、広く「国民全体が近代国家の一員になるプロセス」として位置づけるべきだと考えます。
結論として:
国民に認められるためには、「外国に見せるための演出」ではなく、「日本の国力と主権を強くするための実質的な近代化」を優先し、日本の伝統文化と西洋の長所を融合させるバランス感覚が必要だったと言えます。
イベント1
愛知県犬山市の「博物館明治村」では、鹿鳴館にあった家具(椅子)が所蔵されています。
このギャラリーを読んでくださった方の中で少しでも鹿鳴館や明治時代の政治に興味を持っていただけたら幸いです。政治に目を向けると日本がぶつかってきた数々の問題や今もなお解決されていない歴史的な出来事が見えてきます。皆さんもこのギャラリーを見た今手に持っている端末で、日本の政治や直面している問題について、調べてみてください。


