豊臣秀吉の支配
豊臣秀吉の政策や戦績について説明しています。
〈館長からの挨拶〉
皆さんは豊臣秀吉の政策や戦績について知っているでしょうか。一度は誰もが豊臣秀吉という名前を聞いたことがあるはずです。
豊臣秀吉は戦国時代、安土桃山時代に唯一天下統一を成し遂げた武士でそんな男はどんな波乱の人生を歩み天下統一を成し遂げたのか。また天下統一を成し遂げた後、どんな政策を行い支配体制を作り何を行なったのかをこの資料で学んでいただけたらと思います。
- Toyotomi Hideyoshi
A warlord of the Azuchi-Momoyama period who rose from lowly origins to overlord of all Japan 1537-1598
館長からの一言
尾張国の農村で生まれ、農民から出世し、最後には天下統一を成し遂げ、中国征服をも行おうとした戦国時代後期、安土桃山時代の武将です。農村から足軽となって織田信長に仕え、木下藤吉郎と名乗ります。織田信長のもとで多くの戦績を上げ立身出世した、織田家重臣として活躍するところ本能寺の変で信長が死去。戦を中断してまで急いで明智光秀を追い、打ち取ったことで信長の後継者として選ばれました。そのご次々と敵対勢力を破り天下統一を成し遂げました。
参考文献:名古屋刀剣博物館「織田信長と豊臣秀長の関係」【刀剣ワールド】https://www.touken-world.jp/tips/104368/、2026年2月16日参照
- Letter from Toyotomi Hideyoshi
東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>豊臣秀吉(1537~98)の文書には、大きく、厚みがあり、シボとよばれる凹凸のある檀紙(だんし)という紙がみえる。特徴は、紙の中心に向かう対角線上に引きつったような皺(しわ)で、紙をぶら下げて干したことを示す。独特な檀紙を使うことで、権威を誇示しようとしたのであろう。<br /></p>
豊臣秀吉は高価で独特な檀紙を使ったとして当時の秀吉の権力が非常に強大だったことが表れています。
- 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉
豊臣秀吉は天正18年に小田原の北条氏を攻めるため、大軍を率いて京都を出発し、東へ向かった。3月13日には浜松へ入り、先発している筒井定次、浅野幸長、小野木重勝、京極高次の4人に城を包囲するため、柵木や竹、縄などの資材を調達するよう細かな指示を出している。
館長からの一言
【豊臣秀吉が北条氏を攻める要因】
豊臣秀吉は1585年に関白に任官後、四国、九州と次々に地方を征服し、西国を全て平定した状態になりました。次に関東、東北を平定するとなった時、秀吉は関東、奥両国無事令という命令を出し、それらの地方の大名同士の戦いを停止させました。そして秀吉に従うか従わないかをとう目的として1588年、天皇を自分の城に招き全国の大名に列席を命じましたそこで北条氏は秀吉に反発し、城に上洛しなかったため秀吉に敵対関係をもたらしました。
参考文献:小田原市役所、「小田原合戦」、小田原市https://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/011/
2026年2月16日参照
- 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が天正20年(1592)4月28日、「羽柴豊後侍従」こと大友吉統に対して、朝鮮へ渡海するために必要なな船を、商人の船を含みできるだけ多く用意し、肥前名護屋へ遣わすように命じた書状。『大友家文書録』によると、「朝鮮陣豊後兵船八十二艘」とあり、この命令をうけて大友氏が調えた兵船は82艘に及んだようである。日付の下には、秀吉が使用した有名な「糸印」の朱印が捺されている。
館長からの一言
豊臣秀吉は日本統一後、海外へ関心を持ち外国の征服を試みました。秀吉が朝鮮に渡航するための船を大量に用意したのは中国を征服するためにまず朝鮮を征服しようとしたためと考えられています。
中国(当時は明)を征服することで貿易の独占支配を行おうとしていたという説があります。
戦いは「文禄の役」、「慶長の役」と二つあります。
1、まず文禄の役では日本が戦力、装備で勝り当時の朝鮮の首都
「漢城」までも落とすまで優勢でしたが、朝鮮と深い関係を持っていた明が援軍を送り苦戦を続けた。そのご窮地に追い込まれた日本は中国、朝鮮と和議を結び一旦戦いは終結しました。
2、次に慶長の役では文禄の役を得て戦いが終結したかに思われましたが、それぞれに行き違いがあったことで再び戦いが始まりました。しかし戦いの最中、豊臣秀吉が倒れて死去したことで急きょ戦いは中止となり終わりました。
参考文献:東洋経済新報社、「なぜ豊臣秀吉は【朝鮮出兵】を決意したのか」、東洋経済online、https://toyokeizai.net/articles/-/158743、2026年2月16日参照
- 大阪城 Osaka Castle
南城市教育委員会
1963。 大阪城。 G.E.クリスターソン氏は日本の観光地を巡った。 1963 Osaka Castle Mr. G.E. Christersson visited tourist sites in Japan. 寄贈者:ギルバート・E・クリスターソン夫人 Contributor: Mrs. G. E. Christersson
館長からの一言
織田信長に抗していた石山本願寺の跡地を手に入れた後、豊臣秀吉が全国統一の拠点として1583年に大阪城を作り始めた。大阪城は約15年後の1598年に完成した。しかし、1615年大阪夏の陣で豊臣家滅亡と同時に大阪城は全て焼失した。そこで江戸幕府は1620年に大阪城は再建が始まった。その後10年をかけて再建されたが、豊臣秀吉が作ったものとは全く異なるものとなっていました。
【なぜ徳川幕府が豊臣の秀吉の作った大阪城をわざわざ再建したのか】
まず徳川幕府が豊臣家の痕跡を完全に消したかった。
次にそれによって西日本に徳川幕府の支配を見せつけ、また大阪城の防衛力を強めるためです。
参考文献:大阪城パークマネジメント株式会社、「大阪城の歴史」、特別史跡 大坂城跡 大阪城公園https://www.osakacastlepark.jp/articles/detail.html?id=180&lang=ja
2026年2月16日参照
この資料を読んだ皆さんへ。ここまで資料をよんでどう思いましたか?この資料を読んで豊臣秀吉が天下統一までに経験した多くの戦、苦難の道、どんな意思をもち様々な政策を行なったのか学べていただけていたら幸いです。是非ここで知った知識を日常生活などに活かして自分のより充実した生活に繋げられればと思います。
名古屋市中村区中村公園の豊臣ミュージアムに行けばさらに秀吉のことについて知れます。是非行ってみてください



