信長の歩み
館長からの挨拶
皆さん、この度は『信長の歩み』を見に来てくださり誠にありがとうございます。
信長はゲームや漫画でも人気で、戦国武将としての知名度は日本一なのではないかと思います。けれど、尾張の大浜うつけと呼ばれていたのも有名でしょう。この展示ではそんな信長の歩みをお見せします。皆さんが歴史を知ろう、楽しもうという気持ちになれるきっかけとなれば幸いです。
第1節
信長の第一歩
武将信長の第一歩
第2節
信長の台頭
信長は尾張を平定後、急激にその存在感を示していきます。それでは展示をご覧ください。
信長の台頭
信長の台頭 展示
- 「太閤記の内」 「清州城普請」「桶狭間合戦」
月耕,-,福田熊次[郎]
館長からの一言
1560年 桶狭間(今の愛知県名古屋市の辺り)で駿河、遠江、三河(今の静岡県の辺り)を治める今川義元と小国の領主、織田信長が戦いました。
織田勢約3000人に対し今川勢約2万5000人。今川が勝つに決まっている、そう思われました。なので今川義元は戦いの直前にもなっているにも関わらず油断をしました。雨の中少数の織田勢は急襲を仕掛け、見事敵将今川義元を討ち取ったのです。
この戦いで、織田信長の名は全国に知られることとなりました。
また、この絵の上部に描かれている清洲城から信長はこの戦いへ向かいました。
- A Ruthless Warlord’s Spirit of Hospitality
Oda Nobunaga (1534 - 1582) is a famous feudal warlord who rose to power during the latter half of the Warring States Period (1467 - 1568) from his stronghold at Gifu Castle, in what is now Gifu City. Although he was known for being tactical and ruthless, he was also an expert at entertaining guests. Not only did he win battles, he won people’s hearts by hosting them lavishly. He built a luxurious palace at the foot of the hill where his castle stood to welcome his guests. Portuguese missionary Lu?s Fr?is (1532 - 1597), who visited Nobunaga at the palace, described it as “paradise on Earth.” Important guests were served sumptuous dishes by the warlord himself, and were invited up to Gifu Castle to enjoy the magnificent view. He often entertained his guests with a show of ukai, a fishing technique using trained cormorants, on the nearby Nagara River. The palace no longer exists, and the castle that currently stands was rebuilt in 1956, but the ancient castle town’s historical buildings, cuisine, and traditional cultural events continue to give visitors a taste of Nobunaga’s hospitality.
館長からの一言
美濃(今の岐阜県南部)にある難攻不落の城、それが岐阜城です。
斎藤道三が亡くなった後、信長は当時「稲葉山城」と呼ばれていたこの城を、周辺地域合わせて岐阜と改称し「岐阜城」という今の名前になりました。
1567年 信長は岐阜城に居城を移し、安土城に移るまでの約9年間をこの城で過ごしました。
岐阜城は日本100名城にも数えられるほど有名で、私館長も訪れたことがあります。
- Nobunaga Going up to Kyoto
福田恵一 FUKUDA Keiichi,Nobunaga Going up to Kyoto,color on silk
館長からの一言
1568年 信長は足利義昭を連れて上洛(京都へ行くこと)しました。この際、通り道に六角家の治める土地を通りたかったのですが申し出を拒否されてしまったので戦(観音寺城の戦い)をして勝利し進みました。この戦いでの勝利により信長は畿内でも存在感を示すようになりました。
その後無事に足利義昭を都入りさせて第15代室町幕府将軍とさせることができ、信長は将軍との比較的良好な関係と畿内での存在感を手に入れることができました。また、ここで明智光秀と信長は出会いました。
余談ですが皆さんは、「なぜ上洛をしたがるのだろう?」と思いませんか?思いますよね?
その理由は意外にも単純です。各地の大名が上洛をしたがるのは朝廷や幕府から役職を授かり自分が領地を支配する大義名分と権力を手に入れたいからです。お墨付きっていうのはいつの時代でも大事なんですね。
第3節
信長の天下布武への道とその最期
信長は上洛し、足利義昭を第15代将軍とした後もその勢力拡大の手を緩めることはありませんでした。けれどその最期は思わぬ形で迎える事となってしまいました。それでは展示をご覧ください
信長の天下布武への道とその最期
信長の天下布武への道とその最期 展示
- 姉川古戦場
滋賀県長浜市の北部にある姉川。ここは織田信長と浅井長政が激戦を繰り広げた場所です。多くの死傷者を出したという姉川の戦いでは、川が兵士たちの血によって赤く染まったと伝えられます。(この動画は、2006年に放送したものです。) (作品の解説文の原文)
館長からの一言
1570年 お市の方(信長の妹)を妻にもち、織田家と同盟関係にあったはずの浅井長政が、朝倉義景と信長が戦った時(金ヶ崎の戦い)に朝倉家に味方した事から浅井家と織田家も対立し、姉川(琵琶湖の東側)で戦いました。それが姉川の戦いです。織田側には徳川家も付き、織田・徳川約20000人対浅井・朝倉約14000人で結果は織田・徳川連合軍の勝利となりました。
この戦いでは浅井家と朝倉家の両家とも滅亡とはなりませんでしたが3年後の一乗谷の戦いで朝倉家が、小谷城の戦いで浅井家も滅ぼされてしまいました。
余談ですがお市の方は戦国1の美女とも言われ、浅井家が滅んだ後、信長の家臣だった柴田勝家に嫁いでいます。
- 比叡山延暦寺名所図絵
吉田初三郎著,延暦寺御遠忌事務局
1571年 姉川の戦いの後、朝倉と浅井は比叡山延暦寺に逃げ込みます。延暦寺は信長からの書簡に返答もせずに浅井と朝倉を囲い続けました。そのため信長は焼き討ちという強硬手段に出たのです。元々、信長は延暦寺含め寺社に強気な姿勢をしていたので反発は前からあったのでしょう。
信長は夜、およそ30000人もの兵士を動員し、焼き討ちと虐殺を行いました。その結果、老若男女と僧侶を含め3000〜4000人ほどが亡くなりました。
- 元亀三年十二月味方ヶ原戦争之図
1572年 打倒織田家のため西進を始めた武田信玄と三河の徳川家康が戦いました。信長は家康に援軍を送りましたが、圧倒的な人数差、そして信玄と家康の経験値の違いにより、家康は大敗しました。家康自身は命からがら逃げましたが、信長が派遣した武将のうち一人は戦死してしまいました。
これは織田・徳川両家からしてもかなり印象的な大敗です。
- 長篠合戦図屏風(模本)
模者不詳,東京国立博物館
1575年 父の武田信玄が病死した後、武田家を継いだ勝頼が再び西への進行を開始し、騎馬隊を連れて長篠にて織田・徳川連合軍と戦いました。武田の騎馬隊はその強さで有名でしたが、信長は柵などを利用し野戦築城をするとともに最新兵器の鉄砲を1000丁余りも用意し、迫る武田勢1万数千人を織田・徳川連合軍三万数千人で迎え撃ちました。その結果最新兵器と戦略に優れた信長たちの勝利となり、織田・徳川側に大きな被害はなく、武田には壊滅的な被害が及びました。
- 落葉 安土城跡
吉岡専造
1576年 信長は岐阜城の次の居城となる安土城の建設をしました。この安土城は琵琶湖に面し、交通にも優れ信長はここを新たな拠点として天下統一を目指しました。
しかしながらこの安土城は信長の死後誰かによって焼かれてしまい、今も明らかになっていない謎というのは多くあります。が、そのような謎から想像を膨らませてみるのも歴史の醍醐味です。
- 太平記石山合戦
歌川国輝(2世)
1570〜1580年 このおよそ10年間、石山本願寺の勢力と織田側は戦いを繰り広げていました。1580年に本願寺派の顕如が石山本願寺を明け渡す形でこの一連の争いは終わりを迎えましたが、その後も顕如を倒すために兵が動員されました。しかし後一歩というところで信長の訃報が届き顕如は休止に一生を得たのです。
今からするとお寺が武力を行使するなんて信じられませんよね。
- 「本能寺焼討之図」 「織田信長」
延一, 沢村屋 清吉
1582年 中国地方の毛利を征伐するために派遣されていた秀吉の援助のために明智光秀が信長から名を受けました。が、ここで明智は信長がいる本能寺へと向かいました。援軍の予定だった明智勢13000人に対し、信長側は150〜160人ほど、圧倒的な戦力差を前に信長自身も奮闘するも負傷、本能寺には火が付けられ、死を悟った信長は一人で切腹しました。
その後明智は死に物狂いで信長の首、遺体を探しましたが見つからず、現在も信長の亡骸の場所はわかっていません。
このようにして信長はその生涯を終えました。天下統一まで後一息というところでの謀反。明智の動機も未だ謎のままです。
展示を見終わった方へ
皆さん、この度は『信長の歩み』をご覧くださりありがとうございました。この展示を通して戦国時代や歴史というものに、「かっこいいな。面白いな。もうちょっと知ってみたいな」という気持ちを持ってくれていると嬉しいです。この展示には示されていないエピソードなども数多くあるので、ぜひご自身で調べてみてください。
館長より
⭐︎予定中のイベント⭐︎
お侍さんになってみよう! 甲冑と刀を身につけ歩いていただき写真撮影をします。
信長さんとお話ししよう! 専門家と協力し、生成AIを利用して作った信長AIとお話しいただけます。







