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真田信繁・幸村

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今回は真田信繁と幸村の違いについてを調べました。どうぞお楽しみください。


今回は真田信繁と幸村の違い、認知度の違いがあるのかと興味があったので、調べました。

  • 伝真田信繫画像

    真田信繁(幸村)と伝わる画像。真田家ゆかりの高野山・蓮華定院には、同じ像容で信繁の父・昌幸の兄である真田信綱の画像と伝わるものもある。

    真田信繁と調べるとこのような絵が出て来ました。

  • 真田幸村画像

    幸村(信繁)は上田城を築いた真田昌幸の次男(信之〔のぶゆき〕の弟)として生まれ、2度にわたる徳川軍による上田城攻撃を父とともに退けている。 そして、大坂の役にあたっては、豊臣秀頼の大坂城に招かれ、徳川勢を相手に華々しい活躍ののちに討死〔うちじ〕にし、名を後世に残した。

    真田幸村と調べるとこの絵が出て来ました。信繁とは少し顔が違って見えます。

  • 「真田幸村 中村芝翫」

    国周,中村座,海老林 海老屋 林之助 ,真田幸村〈4〉中村 芝翫

    ほかにも真田幸村と調べると役者絵が出て来ました。江戸時代のものでしょうか?

  • 「真田幸村 河原崎三升」

    ,,,国周,−,真田幸村 [0]河原崎三升

    ほかにも真田幸村と調べると役者絵が出て来ました。江戸時代のものでしょうか?

  • 錦絵真田幸村勇戦之図

    慶長20年(1615)5月の大坂夏の陣における真田幸村の有名な奮戦ぶりを描いている。中央馬上が幸村、右にやはり馬上のその長男大助。幕末期の錦絵。 作者は歌川芳虎。芳虎は号を孟斎または一孟斎という。天保年間(1830年代)より明治にかけて活躍した浮世絵師で、武者絵を得意とした。

    ほかにも真田幸村と調べると役者絵が出て来ました。江戸時代のものでしょうか?

  • 真田信繁書状

    真田信繁

    真田家の家老を代々務めた小山田家伝来の資料。大坂冬の陣の後、信繁が姉・村松殿へ書き送った書状。思いがけず争いとなり気を遣うこともあるが、とりあえず戦が終わり、死なないでいる、とある。村松殿の息子・主膳に会っていることが書かれており、信繁は大坂城入城後も親族と連絡を取り合い、面会も出来ていたことがわかる。

    真田信繁と調べると書状?の画像が出て来ました。信繁が書いたもののようです。

  • 小幡信繁願文

     この文書は真田昌幸の家臣であった小幡源吾信繁が、天正19年(1591)12月のある日、下之郷諏訪大明神(生島足島神社)に御祈祷していただくため、土地を寄進しますと約束した、お願いの文書です。願文には「源吾小島郷(上田市小島)を拝領したので、500文の土地を寄進いたします。どうか一族と家来七人の武運長久や息災延命と、源吾の十七歳の危難を除いてください。なお繁栄することができて本拠地へ還住したら、本領から当社に千疋びき(1疋は10文、1000疋は10貫文)を寄進します。どうかお守りください。」としたためてあります。天正19年の干支は辛卯が正しいのに、なぜ壬丁と書いたのが不明です。臘月は陰暦十二月の別のいい方です。<br> 小幡氏の本拠地は上野国(群馬県)甘楽郡小幡で、はじめ武田信玄に仕えましたが、武田氏滅亡後、真田氏の配下となり重臣として仕えています。信繁はこの一族と思われます。

    真田信繁と調べると書状?の画像が出て来ました。信繁が書いたもののようです。

調べてみると本当の名は真田信繁といい、幸村は江戸時代に庶民が名付けた名前です。真田信繁という名前を口にすると裏切り者とされてしまうため、庶民は真田幸村と呼んで真田信繁とは別人だとして尊敬していました。

真田信繁という名前を禁止にするほど徳川家は真田信繁を恐れていたのですね!