ニホンジカと人間の繋がり
日本で鹿がどのように生き、僕たち人間と関わってきたのか、その歴史を辿りながら、現代の自然環境が抱える問題について展示しています。
◼️館長あいさつ
皆さんこんにちは。館長です。僕は幼少期から生き物が大好きです。しかし近年、毎日にようにニュースで見る「熊の人里への出没」。その背景を調べていくと、なんと僕の大好きな「鹿」の存在が深く関わっていることを知りました。
この博物館では、ただ鹿を展示するだけではなく、日本という国で鹿がどのように生き、僕たち人間と関わってきたのか、その歴史を辿りながら、現代の自然環境が抱える問題について一緒に考えていきたいと思います。
◼️この展示について
日本にはいつから鹿がいたのでしょうか?古来より、鹿は神の使いとされ、また貴重な食材や衣服の素材として日本人の生活に密着してきました。
しかし現在、鹿はその強い繁殖力により爆発的に増加し、生態系のバランスを崩す要因ともなっています。本展示では、ジャパンサーチの文化財を通じて「ニホンジカ」の歴史的背景を探ります。また近年話題に上がる「キョン」などとの違いも交えながら、鹿の生態や繁殖力の秘密に迫ります。
過去の人間と鹿の関わりを知ることで、なぜ今、森の境界線が崩れ、熊と人間の衝突が起きているのか、そのヒントを見つけ出します。
- Tomb Sculpture ("Haniwa"): Deer
東京国立博物館,Tokyo National Museum
館長からの一言
【日本における鹿のルーツ(古代の姿)】
古墳時代から既に鹿は身近な存在であり、神聖な動物や狩猟の対象として描かれていました。
館長からの一言
【外来種キョンとの関係】
千葉県などで急増しているキョンは、実はシカ科ですが、ニホンジカとは異なる外来種です。人間の手によって、持ち込まれた動物がいかに環境に影響を与えるかを考えるいい機会だと思います。
- Document of Litigation
館長からの一言
【強い繁殖力と狩猟文化】
寛政7年(1795年)3月第11代将軍徳川家斉は下総小金原で鹿狩りを行いました。
かつて江戸時代では、人間やオオカミが天敵となり、鹿の数をコントロールしていましたが、そのバランスが崩れたことが現在の過剰繁殖に繋がっています。
- エゾシカ(雄)
北海道に分布。他にホンシュウジカ(本州)、キュウシュウジカ(九州・四国)などがいる。同一種はベトナムから極東アジアに広く分布。険しい山岳地以外の草地を葺くんだ森林地帯を中心に生息。頭胴長オス:90~190㎝、メス:90~150㎝、肩高オス:70~130㎝、メス:60~110㎝、体重オス:50~130㎏、メス:25~80㎏。夏毛は茶褐色の地色に白斑、冬毛はおすは濃い茶色、メスは灰褐色、白斑はほとんど消える。草食性。捕食者はかつてはオオカミ、現在は野生化したイヌやヒグマ。昼夜の区別なく活動し、春から初夏に1子(まれに双子)を年1階出産。(太田屯田開拓記念館に展示)
館長からの一言
【鹿の種類の違い】
1.海が隔てた「進化の道」エゾシカは北からのルートで入ってきた大陸系。ホンシュウジカは南からのルート、あるいは古い時代に入ってきた鹿が独自に変化した説。
2.寒い場所ほど大きくなる「ベルクマンの法則」など諸説あります。
- 利尻島アフトロマナイで殺獲されたヒグマ
北海道といえば、「ヒグマ」。いま現在、利尻島には生息していないが、明治45年に、はるばる北海道本島から泳いで渡ってきた記録がある。クマ騒動は、当時の新聞紙面を飾るほどの珍事で、八田三郎による報告も知られる(大正元年「熊の渡海」『動物学雑誌』第24巻第288号)。 【小樽新聞】 明治45年5月23日「鬼脇に熊出没」 5月25日「鬼脇付近の巨熊」 5月30日「利尻島沖で巨熊撃殺の後報」 【北海タイムス】 6月 2日「孤島に熊群の侵入」 これら新聞記事によると、5月22日あたりから利尻島にクマがあらわれていたとのこと。どうも利尻島の対岸から島に泳ぎわたり、一度上陸してからまた海に戻ったという。そうして再び、上陸しようと海岸に向かって泳いでいたところを□〆(カクシメ)赤坂漁場の若い衆に発見され、大捕物のすえに斧で撲殺されてしまった。 そのときの写真(明治45年5月24日 寺島豊次郎撮影)には、アゴを鉄砲で支えられたヒグマ(雄の成獣で背丈2.4m、体重300㎏)と、まわりに群がる大勢の人が写されている。記事からは、現在の旭浜、アフトロマナイ海岸にクマが泳ぎ渡ろうとしたことがわかるが、クマはどこから利尻島に渡ろうとしたのかは、今もってわからない。また、クマが解体された後の毛皮については、赤坂漁場の親方の手に渡ったといわれているが、所在は不明である。 では、なぜ島に渡ってきたのか。言い伝えでは、天塩の山火事で食べ物がなくなったため、利尻島を目指して泳ぎ渡ってきたといわれている。しかし、「天塩の山火事に追われ天塩から渡った」というのは、本当なのか?まず、明治45年のこの時期に天塩で山火事はないので、「山火事に追われた」という言い伝えは根拠がなくなる。ちなみに、このころの「火事」を挙げると 明治43年5月24日 天塩村市街169戸焼失 明治44年4月 8日 鬼脇村清川31戸・36棟焼失 5月13日 鴛泊村本泊~ポン山 7日間延焼 5月17日 稚内町720戸・宗谷村71戸焼失 天塩産土原野山火事 以上のように、当時は火事が頻繁にあった時代で、人から人へ言い伝わるうちに、クマ騒動と話が組み合わさったのかもしれない。 次に、渡り始めたのは「天塩から」といわれている。現在の天塩町の中心地から利尻島までの距離は、およそ50kmある。クマは“泳ぎの名手”といわれており水浴びも好きで、昭和20~30年代までは知床五湖や芦別岳の熊の沼、大雪山の沼の原・沼の平・高原沼などには水浴びのために来るヒグマの足跡が必ず見られたという。また、ヒグマが遊泳している記録は、安政3(1856)年5月、石狩川を泳いでいるヒグマを有名な北方探検家である松浦武四郎が3回見ている。さらに、網走管内置戸町の「おけと湖」を泳ぐヒグマを報道した記事もある。 しかし、いくら“泳ぎの名手”とはいえ、潮の流れのある海を50kmも泳ぐのは大変なことである。最短ルートは、稚咲内からオネトマナイ川にかけての海岸からで、直線距離で20kmを測る。どのルートでたどり着いたかは謎だが、今に語り継がれる珍事件といえるだろう。
館長からの一言
【そして現在、消えた境界線】
かつてヒグマが長距離を泳いで渡ったという珍事も記録されています。近年、様々な環境変化、さらに鹿が下草や木の実を食べ尽くしてしまうことで、人間・鹿・熊の生存圏の境界線が重なっています。全国各地で熊が人里近くまで餌を求めて下り、人的被害を起こしている現代の社会問題は、今後も重要なテーマとなっていきます。
ご観覧ありがとうございました!古くから、日本の美術や文化に登場する鹿は、僕たちにとって身近で美しい存在です。しかし、天敵の不在や気候変動など、様々な要因でその数が急増した結果、森の生態系に大きな変化をもたらし、結果的に熊の被害と言う形で、僕たち人間の生活にも影響及ぼしています。「かわいい」「美しい」だけでは済まされない自然の厳格なルールの前に、僕たち人間はどうやって再び自然と折り合いをつけ、共存していくべきなのか。この展示がその答えを考えるきっかけになれば幸いです。
■イベント1「第2回鹿サミット~自然と響き合う~」
日程:2026年3月15日(日)
場所:札幌市(YouTube配あり)
内容:「動物園から見たエゾシカ・ヒグマとの共存」旭山動物園の園長らが登壇。
「アイヌの考え方から学ぶ」先住民族の知恵。歴史的な展示パート。高校生の発表。
■イベント2「野生生物と社会」学会大会
日程:2026年10月10日~12日
場所:福島大学
内容:人と野生動物の軋轢や管理について研究者が集まって議論する学会。

