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No more GENBAKU

長崎・広島の原爆の歴史、知りたくないですか?

はじめに

館長あいさつ

 初めまして、館長です。本日もご来館していただきありがとうございます。こちらの博物館は、広島・長崎の原爆についての博物館、『No more GENBAKU 』博物館です。


この展示について(展示の趣旨)

 2年前の夏、私は初めて広島県に行きました。そこには、今にも崩れそうな「原爆ドーム(広島県産業奨励館)」。それが、わずか数秒でボロボロになってしまったなんて考えられませんでした。そこで、原爆の悲惨さを実感しました。その後、広島平和記念資料館に行きました。独特な雰囲気の中、展示品を見ていて、あまりにもそれはひどいもので、、、。そこで、今回、この博物館を作ろうと思いました。趣旨としましては、私は世界遺産検定三級を持っています。その勉強中にふと目に入った「広島平和記念碑(原爆ドーム)」。それは、「負の遺産」というものに分類されるものだった。負の遺産は、簡単に言うと、昔の人の過ちを、後世の人々に受け継ぎ、その過ちを忘れないようにする遺産。なので、これからも、原爆ドームを、そしてその歴史を忘れないで欲しい。そんな思いで、この博物館を作りました。


名前の由来

 こちらの博物館の名前;「No more GENBAKU 」は、山口仙ニ氏の言葉から考えました。山口氏は、日本の反核平和運動家で、1982年の国連軍縮特別総会で山口氏が放った言葉が「ノーモア原爆」です。この言葉は、核兵器の惨禍を二度と繰り返さないという強い意思と、核兵器廃絶を訴える平和運動の象徴的な言葉です。なぜ私が、それを英語に変えた名前にしたのか、それは、日本だけじゃなく、世界で核兵器問題を考えようという思いで、英語で書きました。

                                  以上 館長より

原爆関連文化財及び資料

  • ①広島・原爆ドーム

    笹本恒子

    館長の一言

     こちらの文化財は、1953年に撮影されているので、原爆投下から8年経った広島県産業奨励館の写真です。2年前の夏、初めて広島に行きました。その時に、広島原爆ドームを見て、原爆の悲惨さを実感しました。被曝前は、⑧広島県産業奨励館という名前の、産業振興の中心地でした(詳しくは⑧をご覧ください)。

     写真配置としては、後位:原爆ドーム(前;広島県産業奨励館)、前位:慰霊碑、という形になっている。

     1953年は、まだ終戦から8年しか経っていない。そのため、慰霊碑は、現在のように、まとまっておらず、墓碑と逆三角形の提灯を設置している。

     記念すべき、「No more GENBAKU 」博物館最初の文化財です。1982年の国連軍縮特別総会での被爆者の山口仙二氏、2017年には、「核兵器廃絶国際キャンペーン」のノーベル平和賞受賞、など、長い間日本から原爆の悲惨さを世界に発信してくれた方々。一方、No more GENBAKU を進めていた方々の努力も虚しく、近年では、実被爆者の死去、若者の原爆賛成率;27%、原爆への政治家の不適切な言動、など、原爆の意識を失いかけている。

     そんな中でも、その惨状を後世に継ぐため、そう思い僕は、博物館を作った。

  • ②広島原爆被災品

    錆のような黒・茶色。陶製。なす型壁掛け一輪挿し。表面に凹凸有。

    館長の一言

     こちらは、終戦年の1945年に発見された、原爆被災品です。元は、なす型壁掛け一輪挿しで、陶製である。元の色は、紫とわかるものの、焦げていることが確認できる。表面には凹凸ができており、投下時の爆風と高温を物語っている。投下時の爆風は、秒速約440m(時速約1600km)以上に達し、音速(約340m/s)を超えるような風で、空中に発生する火球の温度は摂氏数百万℃〜百万℃以上に達し、0.2〜0.3秒後でも7000〜7700℃に達する。爆心地の地表面は3,000〜4,000℃の灼熱に包まれ、鉄(融点約1,538℃)や石を溶かすほどの高熱と強烈な熱線で甚大な被害をもたらしました。 

     こういった、投下時の状況がわかるようなものは、高温で溶けてしまったり、爆風で粉々になってしまい、見つからないケースが多々。広島原爆資料館最大の「広島平和記念資料館」には、そんな被災品が多く所蔵されている。

     (現在はこの文化財は、京都府・立命館大学国際平和ミュージアムに所蔵)

  • ③原爆第一号 古川清さんのケロイド

    吉田潤

    館長の一言

     こちらの資料は、「原爆第一号」の愛称で知られる、「吉川清(きっかわきよし)氏」のケロイド写真である。吉川清氏は、日本の被爆者であり、平和活動家で、後に被爆者運動の草分けとなった人物である。

     原爆に使用された「プルトニウム(Pu)」の熱線と放射線で皮膚の細胞が破壊されて、肌が爛れます。

    また、ケロイドの肌の爛れには別の理由があり、 瘢痕組織の増生からなる病症で、熱線や放射線での皮膚細胞の破壊を治療する過程で、皮膚が過剰に再生・増殖し、肌が爛れます。これらの熱線と放射線が同時に、かつ大規模に作用したことで、普通の火傷とは比べ物にならないくらい深刻な「肌の爛れ」が起こる。また、背中にケロイドがある写真だが、体をどのように守ろうとしたのかによって、どこにケロイドが生じるのかが変わる。

  • Keloid

    福島 菊次郎,FUKUSHIMA Kikujiro

    館長の一言

     こちらも③と同じく、ケロイドの写真です。被写体のお名前は不詳。こちらの写真は1960年に撮影されているため、被曝から15年後のケロイドの状態です。ケロイドは右首端に作用しており、おそらく、被曝時は、被写体から見た右から爆風・熱線・放射線が覆い被さるように来たと見られる。

     ケロイドとは、別の話ですが、撮影者の「福島菊次郎氏」は、『ピカドン ある原爆被災者の記録』という写真集が、日本写真評論家協会賞特別賞に受賞しました。福山氏自身も太平洋戦争の軍人として、国に命を捧げた人です。

  • ⑤新聞切抜き:「B29から撮影した長崎原爆のキノコ雲」

    長崎原爆戦災誌1巻にはさみこみ。キノコ雲の写真が載っている。「現在各実験の回数は八百回を超している」という解説付き。

    館長の一言

     こちらの資料は、広島原爆のものではないですが、長崎原爆のキノコ雲の写真を載せていた新聞の切り抜きです。

     1945年8月9日午前11時2分、長崎には、爆撃機「ボックスカー」が空に飛んでいた。そこから投下された、「ファットマン」は、地面に墜落した瞬間、オレンジやピンク色に輝くキノコ雲を生じさせた。高さ約10000〜15000mに達する巨大なキノコ雲が立ち昇った。風速:秒速約440m(時速約1600km)、温度:7000〜7700℃となった。また、なぜキノコのような形の雲が原爆投下時に生じるのか。それは、1.核爆発の直後、爆心地には高温の火球が形成される。周囲の空気より軽いので、上昇する。2.上昇する火球の内部は高速で、外部は、空気抵抗の摩擦で遅くなる。この、内外部の差により「渦」が生じる。上空でその空気は冷やされ広がる→キノコの傘部分。3.火球が上昇した時、地上では、急激な気圧低下が起こる。

    すると、周囲の空気(地上の土、塵なども)は火球を追うように上昇する→キノコの茎部分。上昇する火球と冷たい空気が混ざり渦が生じることを「レイリー・テイラー不安定性」という。これが、キノコ雲形成の鍵となる。また、周囲の土・塵が上昇した後、空気は急激に冷やされる。それが、放射性降下物という名の「黒い雨」を降らせる。

  • ⑥(広島名所) 広島県産業奨励館

    館長の一言

     こちらの資料は、原爆ドーム前の、「広島県産業奨励館」を詳しく書かれたものです。

     広島県産業奨励館(広島県物産陳列館・広島県商品陳列所)は、用途:展示施設、設計者:ヤン・レツル。コンベンション・センターという、日本では会議場の用途もある。日本の建築物で、当時のものでは、ドーム型が珍しい。鉄骨入りレンガ・石造、地上3階・地下一階、敷地面積約3,200m2、建築面積約1,002m2 、高さ約25m。建築様式は、基本的に「ネオ・バロック様式」、装飾は、当時モダン様式だった「セセッション式」。

     現在では、「原爆ドーム」という形で、世界遺産の「負の遺産」として、登録されている。僕自身も世界遺産検定三級を保持しているが、負の遺産は、簡単に言うと、昔の人の過ちを、後世の人々に受け継ぎ、その過ちを忘れないようにする遺産。なので、これからも、原爆ドームを、そしてその歴史を忘れないで欲しい。そんな思いで、この資料を選択した。

  • ⑦ロバート・オッペンハイマー : 愚者としての科学者

    藤永茂 著,朝日新聞社

    館長の一言

     こちらの資料は、原爆(リトルボーイ→広島、ファットマン→長崎)を作ったとされる、ロバート・オッペンハイマーの誌である。オッペンハイマーは第二次世界大戦で原爆製造の指揮をとり、一時は米国で最も政府に重用される科学者だった。そのことから、日本では「原爆の父」と呼ばれている。

     生まれも育ちも、アメリカのロバート・オッペンハイマー/理論物理学者。しかし、オッペンハイマーは、マッカーシズム(赤狩り)最盛期にソ連のスパイであるとの疑いをかけられた。ーマッカーシズム

    とは、1950年代にアメリカ合衆国で発生した反共産主義に基づく社会運動、政治的運動であるーその後、1954年、スパイの嫌疑を受けて、国家機密に関与する資格を奪われ公職から追放されてしまった。これが、のちの「オッペンハイマー事件」だ。

     この資料には、「愚者」、上記の事件では、このやられ様。オッペンハイマーは、原爆製造の指揮をとった。これだけを聞くと、愚者と言われても仕方がない?違うんです。オッペンハイマーは、自身が作った創作物(原爆)がもたらした破壊力に懊悩(おうのう)し、戦後は水爆開発に反対して政治的な迫害を受けた「悲劇の科学者」。映画『オッペンハイマー』の最後のセリフでは「I believe we did.」と、「我々は破壊してしまった【字幕】」と言っており、まさに人生そのものに懊悩していたのです。

     (写真と資料は、別のものである)

  • ⑧私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した

    チャールズ・W・スウィーニー著、黒田剛訳,原書房

    館長の一言

     こちらの資料は、広島・長崎に原爆を投下した「チャールズ・W・スウィーニー」が執筆した『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』です。チャールズ・W・スウィーニー氏は、第一号リトルボーイto広島、第二号ファットマンto長崎を投下した、爆撃機「エノラ・ゲイ」と「ボックスカー」、どちらともに乗っていたとされる人物です(諸説あり:ボックスカーのみに乗っていた)。

     戦後の歩みとして、チャールズ氏は軍を退役して、実業家となった。また、1989年(戦後34年)には、チャールズ氏自ら、来日し、被爆地を訪問している。発言として、1995〜2005年のメディアの取材や、インタビューでは、「トルーマン大統領(原爆投下を決行した人物)の決定は正しい」や、「私自身、罪悪感はない」などと言った、発言から反日意識は多少あると見られるものの、戦争自体についてのことは、1990年代に「チャールズ・W・スウィーニー」著『Wars End』では、「私自身の国民(アメリカ人)であれ、他国の国民であれ、戦争の残虐性に対する誇りや喜びは、当時も今も感じていない。すべての命は貴重だ」と記している。

     (写真と資料は、別のものである)

おわりに

展示を見終わった人へのメッセージ

 展示品、どうでしたか?原爆の歴史はとても深いものです。なぜ、人はこんな愚かなものを作ったのか、なぜ、人は争うのか、気になりますよね。この博物館・展示を見てくれた人、ありがとうございました。これからも、原爆の悲惨さを忘れずに、どうか忘れずに、忘れずに、忘れずに帰ってください。


展示関連イベントについて

・『広島、長崎だけじゃない 世界のヒバクシャ』

【開催日時】2026年7月7日(火)〜7月19日(日)

【会場】長崎健美術館

【主催】NPO法人世界ヒバクシャ展 HP https://www.no-more-hibakusha.net

【入場】無料

【内容】6人の日本人フォトジャーナリストが撮影した、原爆、核実験、原発事故、ウラン鉱山、劣化ウラン弾などによるヒバクシャや核汚染の現場の貴重な写真120点を展示します。写真の内容は、以下の通りです。

森下一徹:核廃絶を願って生き抜いた広島、長崎の被爆者たち 

※森下一徹の写真は、このHPのオンライン写真館でご覧になれます。

伊藤孝司:広島、長崎の韓国・朝鮮人被爆者のその後

桐生広人:ムルロア、ロンゲラップの核実験による被曝者

豊﨑博光:アメリカなど世界各地の核実験場、ウラン鉱山などの被曝者

本橋成一:チェルノブイリ原発事故の汚染地域で生きる人々

森住 卓:旧ソ連の核実験場、湾岸戦争の劣化ウラン弾による被曝者、福島原発事故など