Jump to main content
/

第37回新収蔵品展 ふくおかの歴史とくらし

令和4年度収集資料を紹介した展覧会 会期:令和7年11月12日~令和8年2月1日

 福岡市博物館は、開館の7年前(昭和58・1983年)の博物館建設準備室発足以来、考古・歴史・民俗・美術の各分野の資料収集を続けてきました。寄贈や寄託、購入によって収集した資料の数は20万件以上にのぼります。

 収集した資料を後世に確実に引き継ぐため、当館では新たに収蔵されるすべての資料について調査と整理を行い、そのリストを『収蔵品目録』として刊行し、公式ホームページにおいて「福岡市博物館収蔵品データベース」を公開しています。目録刊行にあわせて、博物館の資料収集活動を広く市民の皆様に知っていただくため、『新収蔵品展」を開催し、新たに加わった資料をご覧いただける機会を設けています。


 37回目を迎えた今回は、『収蔵品目録』第40号に掲載した令和4年度収集資料2904件の中から「ふくおかの歴史とくらし」に関わる約70件の資料を厳選し、「福岡藩ゆかりの品々」「福岡ゆかりの人とまつり」「福岡のくらし」「福岡の職人の仕事」の4つの章で紹介します。

 このオンライン展覧会では寄贈、寄託、購入の資料群を章ごとに紹介し、収集資料を一覧でご覧いただけます。


※資料群‥‥寄贈・寄託元または購入別の資料のまとまり

 本展の開催にあたり、貴重な資料をご提供いただきました皆様に厚く御礼申し上げます。この展覧会がふくおかの歴史と人々のくらしのついて、より一層の関心を寄せていただく機会となることを祈念するとともに、福岡市博物館の資料収集活動に、ご理解とご協力いただける契機となれば幸いです。

第1章 福岡藩ゆかりの品々

黒田如水書状

福岡藩士・松本家に伝来した黒田如水(孝高、官兵衛)の書状。端午の節供の祝儀として鰆が送られてきて満足に思うこと、すぐに下国することを伝える内容。松本家は、初代・勝重(光勝)の後、長男・勝良と次男・利勝の2家に別れ、それぞれ歴代の当主が福岡藩の船手頭を務めた。〔第37回新収蔵品展〕

竹図

髙橋達が黒田家から拝領した竹図。本図は、福岡藩11代藩主・黒田長溥が描いたもの。髙橋達は明治19(1886)年、イギリス・ケンブリッジ大学に在学中の黒田長成(長溥の孫)に従うため渡英、自らも同大学で理財学を修めた人物。帰国後、長成が長溥の遺品として本図を贈った。〔第37回新収蔵品展〕

富士図

雲を突いてそびえる雪化粧の富士山とその裾にひろがる名勝 三保の松原を駿河湾の対岸から描く。歴史上、多くの絵師が繰り返し描いた伝統の構図である。作者は福岡藩御用絵師 小方(尾形)守厚(1722-1781)。代々御用絵師を世襲した尾形家の中でも高く評価された6代目当主。〔第37回新収蔵品展〕

楠公桜井駅図

湊川の戦いへ向かう楠木正成が、桜井駅で息子の正行に今生の別れを告げ、訓戒を与えるようすを描く。享保14(1729)年 に儒学者の伊藤東涯が賛を寄せている。絵の落款には「守辰」とあり、福岡藩御用絵師の小方守房の若年期の名乗りと一致するが、まだ類例が少なく検討がまたれる。〔第37回新収蔵品展〕

蝦蟇鉄拐図

体から魂を吐き出すことができる鉄拐仙人と、3本足の白ヒキガエルとあそぶ蝦蟇仙人を描く。ふたりのポーズは、室町時代の禅僧・明兆の蝦蟇鉄拐図に由来し、江戸時代に狩野派でよく描かれた定番型。洞秀が狩野派の伝統に則った絵師だとわかる。〔No.616 石里洞秀〕 体から魂を吐き出す鉄拐仙人と、3本足の白ヒキガエルとあそぶ蝦蟇仙人を描く。ふたりのポーズは、室町時代の禅僧・明兆の蝦蟇鉄拐図に由来し、江戸時代に狩野派でよく描かれた定番型である。作者の石里洞秀は、狩野派を学んだ福岡藩御用絵師で、筑前ではなく江戸に住んでいた実力派。〔第37回新収蔵品展〕

〔四条流伝書〕

福岡藩士・西川家に伝来した四条流の伝書。四条流は日本料理の一流派で、平安時代に四条家の祖・藤原山蔭中納言政朝が始めたと伝える。宮中や貴人の慶賀の日に鯉を調理することを職掌とし、室町時代に庖丁式を伝える家柄として整えられ、儀式の作法や調理法をまとめた伝書が残されている。〔第37回新収蔵品展〕

〔四条流伝書〕

福岡藩士・西川家に伝来した四条流の伝書。西川家は、豊臣秀吉・秀頼父子に仕えて四条流の庖丁道を相伝し、大坂夏の陣後に福岡藩主黒田家に仕えた家。西川正次は四条流庖丁道をもって黒田家の饗膳を取り仕切り、歴代の当主は福岡藩の御料理人頭を務めた。〔第37回新収蔵品展〕

脈対分別之捷径・辨脈體名状

福岡藩の本道(内科)医・鶴原家に伝来した脈診の秘訣を記した覚書。作者の「雖知苦戸」「盍静翁」は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した医師・曲直瀬道三の別名。鶴原鴈林は、福岡藩3代藩主・黒田光之に侍医として仕え、光之の死に際して、その最後まで診療にあたった。〔第37回新収蔵品展〕

梶原家系図

先祖は源平の合戦で活躍する梶原景季。源頼朝の死後、鎌倉を追放となる。景季の子・景経は播磨国(兵庫県)高砂に居住する。梶原家は播磨で勢力を保つが、のちに戦国時代末期の当主・景次が黒田孝高へ仕えることとなる。福岡藩では、算用奉行や代官頭などを歴任した。〔第37回新収蔵品展〕

書状(隼人殿への帷子我等に留め置の件)

貝原益軒の兄存齋(元端)の書状。嶺家は宗像大社の社家を代々務めた家。書状は存齋から嶺新二郎に宛てたもの。その内容からは、単なる個人の書簡のやりとりに留まらない、貝原家と嶺家の親密な様子をうかがうことができる。また、貝原存齋に関する資料は少なく、貴重。〔第37回新収蔵品展〕

木下順庵書状

木下順庵は、新井白石、室鳩巣、雨森芳洲など多くの門人を育てた儒学者。加賀藩前田家に仕え、のちに幕府の儒官となる。書状では、順庵からの質問への、急ぎの返答を依頼している。福岡藩の儒学者・貝原久兵衛(益軒)宛ての書状であるが、嶺家に伝わった理由は不明である。〔第37回新収蔵品展〕

亀井南冥書(七言絶句)

福岡藩の儒学者・亀井南冥による漢詩。酒杯を傾け、故人に思いをはせる様子がうかがえる。南冥夫人の富は文化4(1807)年、3男の大年は同11年に没している。詩はそうした喪失感を抱く南冥自身の状況を詠んだものであろうか。南冥本人は、文化14(1817)年に死去している。〔第37回新収蔵品展〕

四君子葡萄松図押絵貼屏風

福岡藩の儒学者亀井南冥の孫で才女として知られる少琹が絵を描き、本人もしくは夫雷首が漢詩句を添えた、銀地の屏風。画題は、文化史的に高潔な植物とみなされる四君子(梅・蘭・竹・菊)と、子孫繁栄と不老長寿を意味する松と葡萄で、清々しくめでたい組み合わせである。〔第37回新収蔵品展〕

文園

正木昌陽が明治31(1898)年に藍綬褒章を受賞した記念に作成された書画帖。東京在住の門下生の発起によって、貴族院副議長の黒田長成をはじめとして、貴族院や枢密院に所属する華族を中心に、総勢30名の書や画を集め、作成された。〔第37回新収蔵品展〕

金子堅太郎書(正木先生之古希)

金子堅太郎は、嘉永6(1853)年に福岡藩士の家に生まれ、幼少期に正木昌陽のもとで漢学修行に励んだ。その後、藩校・修猷館で学び、その学才が認められ、明治初年にはアメリカへ留学し、法学を学ぶ。本資料は、正木の古稀の祝儀に金子が書いた詩。〔第37回新収蔵品展〕

脇差 備前師光

福岡藩士の毛利家へ伝来した脇差。由緒書によれば、毛利家は毛利元就の弟・元綱の嫡子元辰に始まる。元辰の嫡子が幼年より初代藩主黒田長政によって召し抱えられ、元辰の曽孫・元義の代に至って歴年の功績が認められ、中老格となる。〔第37回新収蔵品展〕

鎗 銘「筑州住源信国作」

鎗術家の伝承が残る家に伝来した鎗。福岡藩の刀工である信国派が作成したもの。信国派の祖は京都五条坊門に居住したと伝えられ、のち豊前に居住する。黒田家が豊前を所領とした際に仕え始め、黒田家の筑前移封に伴って筑前へと移住し、筑前の刀工の主流となる。〔第37回新収蔵品展〕

剣道太祖安陪頼任一鎬士尊位授与書

安陪(倍)頼任は、福岡藩3代藩主・黒田光之に仕えた安陪立剣道の創始者。剣術は人倫日用の道との考えから「剣道」を号する。「温應嚴察一」の5文字は、儒教の5つの徳目「仁義礼智信」に対応していて、安陪立剣道において重要な理念となる。掛軸は師である高橋から永井子琢士(小平)が授かる。〔第37回新収蔵品展〕

少将様御意之趣達書写(奮戦御国威相輝・満足)

戊辰戦争での奮戦をねぎらう褒状や、奇勝隊の頭を務めた永井小平への感状の写しを貼り合わせたもの。戊辰戦争において永井小平は、大総督有栖川宮熾仁親王を護衛する部隊に足軽頭として配属。京都を進発し、上野や江戸周辺を転戦。その活躍が認められ、70石の加増を受ける。〔第37回新収蔵品展〕

ギヤマングラス

博多中島町で提灯屋を営んだ伊藤家(屋号・菱屋)に残されたもの。箱の底にある墨書から、福岡藩士・味岡團兵衛からの贈物であったことがわかる。海外からの輸入品とも考えられるが、弘化4(1847)年に博多中島町に開設された、藩の精錬所でのガラス製造との関係もうかがわせる。〔第37回新収蔵品展〕

第2章 福岡ゆかりの人とまつり

〔神道裁許状〕

江戸時代、全国の神社・神職を支配した京都の吉田家が、香椎宮の神職・御田範衡に宛てた神道裁許状。風折烏帽子と狩衣という装束を着用して神事に奉仕することを許可する内容。御田家は、香椎宮創建時に香椎廟司(香椎大宮司)に補された膳大伴宿祢範綱を祖とする家。〔第37回新収蔵品展〕

大友義統感状

豊後国の戦国大名・大友義統が、香椎宮の大宮司に対して、去年筑後表において戸次道雪(鑑連)が死去したことは是非に及ばないこと、立花統虎(宗茂)が立花城督を続けるので、別儀なく貞心に励むことが肝要であることを報じたもの。〔第37回新収蔵品展〕

脇差 銘「井上和泉守国貞」

井上和泉守国貞(真改)は、「大坂新刀の祖」と言われた初代国貞の跡を継いだ人物。銘に国貞とあるが、初代国貞は承応元(1652)年に没するため真改の作となる。真改は朝廷に刀を献上したことで、菊紋を刻むことを許される。本脇差にも裏銘として菊紋が確認できる。〔第37回新収蔵品展〕

嫁入路次中之次第

小笠原流礼法の秘伝書。嫁入りの際に嫁ぎ先へ持ち込む諸道具が順序立てて記される。また、それらの道具を運搬する行列や行列を構成する諸役人の服装についても記される。秘伝書にはすべてが記されるわけではなく、重要な部分は「口伝」によって伝えられる。〔第37回新収蔵品展〕

覚(財産譲渡の件)

田中六兵衛が作成した財産譲与の書類。清三郎・おきく夫妻には屋敷・酒場道具と酒造りの元手金、おくまとおふさには金銭、残りは田中久之介に譲られたことがわかる。〔第37回新収蔵品展〕

唐冠形兜・紺糸威胸目綴桶側二枚胴具足 小具足付

九州大学名誉教授秀村選三氏の父が収集した甲冑。兜は、唐冠という古代中国の冠をかたどったもので、冠の後ろに付ける長い装飾である「纓」を模した後立が特徴的。〔第37回新収蔵品展〕

一行書「野渡無人舟自横」

大正・昭和時代戦中のジャーナリスト・政治家中野正剛(1886-1943)の一行書。唐代の詩人韋應物の漢詩の結句。中野は福岡市に生まれ、県立中学修猷館にすすみ、早稲田大学を卒業後新聞記者となった。大正9(1920)年に衆議院議員になり、以降8回連続当選した。〔第37回新収蔵品展〕

頭山満像

士族結社玄洋社の創設に関与した頭山満(1855-1944)の肖像画。作者の久保厚助は、福岡市に生まれ、幼少期から福岡日日新聞の挿絵画家から絵画を学び、「雪峰」と号し美人画や花鳥画を描いた。久保は頭山と面識はなかったようで、若き日の頭山の写真から肖像画を描いたと思われる。〔第37回新収蔵品展〕

刀 銘 筑後住小屋松忠重/昭和拾四年八月

福岡県内で鍛刀された刀。日本刀の復興を目指して昭和10(1935)年6月に設立された大日本刀匠協会が主催した新作日本刀展覧会の入賞作品とみられ、第2次世界大戦中に日本刀の代用品として作成された昭和刀と一線を画する。板目肌の肌理が細かい本造りの日本刀である。〔第37回新収蔵品展〕

カメラ

安本江陽(1888-1944)は、明治時代から昭和時代の写真家。明治43(1910)年に開催された第13回九州沖縄八県連合共進会の写真展覧会に出品した作品が一等に選ばれたことをきっかけに博多で写真館を開いた。安本が使用したこのカメラは、縦横の構図の切り替え機能があり、パノラマ撮影も可能。〔第37回新収蔵品展〕

筑前琵琶

寄贈者と寄贈者の祖父が使用した四弦の筑前琵琶。筑前琵琶は盲僧が琵琶を奏でながら経文を唱える「盲僧琵琶」として始まり、明治時代中期に語りと芸能向けの「筑前四弦琵琶」が生まれ、さらに明治時代後期から大正時代初期にかけて「筑前五弦琵琶」が発明された。〔第37回新収蔵品展〕

博多人形「勝った」

令和2(2020)年に逝去した博多人形師・亀田均の作品。賞金袋を握りしめた力士が床に足を投げ出している。タイトルは「勝った」。今まさに大勝負を終えたという虚脱感が微笑ましく表現されている。こうした作風のほか、亀田氏は歌手やスポーツ選手の肖像人形でも知られ、写実的な作品も多く残す。〔第37回新収蔵品展〕

博多人形「神虎幽玄」

唐風の装束に身を包んだ女性が、凛々しい虎にもたれかかり、共にはるか彼方を見つめる。イメージの典拠は明らかでないが、柔らかな彩色もあいまってロマンティックな雰囲気が漂っている。作者は亀田均。名人と呼ばれた博多人形師・小島与一の最後の弟子にあたる。〔第37回新収蔵品展〕

絵馬(鶴)

松源寺(博多区千代)の第10代住職• 佐々木滋寛(1899-1976) が収集した博多の小絵馬。鶴、亀、干支(辰)などの縁起の良い図のほか、同氏が戦前まで福岡周辺でみられた博多祇園山笠を描いた小絵馬を奉納する風習に着想を得て、昭和5(1932) 年に考案した「絵馬郵便」がある。〔第37回新収蔵品展〕

絵馬(亀)

松源寺(博多区千代)の第10代住職• 佐々木滋寛(1899-1976) が収集した博多の小絵馬。鶴、亀、干支(辰)などの縁起の良い図のほか、同氏が戦前まで福岡周辺でみられた博多祇園山笠を描いた小絵馬を奉納する風習に着想を得て、昭和5(1931) 年に考案した「絵馬郵便」がある。〔第37回新収蔵品展〕

絵馬(辰)

松源寺(博多区千代)の第10代住職• 佐々木滋寛(1899-1976) が収集した博多の小絵馬。鶴、亀、干支(辰)などの縁起の良い図のほか、同氏が戦前まで福岡周辺でみられた博多祇園山笠を描いた小絵馬を奉納する風習に着想を得て、昭和5(1932) 年に考案した「絵馬郵便」がある。〔第37回新収蔵品展〕

絵馬郵便(山笠図)

松源寺(博多区千代)の第10代住職• 佐々木滋寛(1899-1976) が収集した博多の小絵馬。鶴、亀、干支(辰)などの縁起の良い図のほか、同氏が戦前まで福岡周辺でみられた博多祇園山笠を描いた小絵馬を奉納する風習に着想を得て、昭和5(1933) 年に考案した「絵馬郵便」がある。〔第37回新収蔵品展〕

博多祇園山笠図「源家一矢誉」

博多土居流の行町が仕立てた山笠の彩色図。「前太平記」に載る源経基が大鹿を一矢にて仕留めたエピソードが主題。本山笠は先端が細く尖る形で19世紀初めの山笠の特徴がうかがえる。文化期の山笠図は他の類例が少なく貴重である。〔第37回新収蔵品展〕

絵葉書「博多祇園山笠櫛田入の壮観 二番舁山東町流」

博多祇園山笠東町流が櫛田神社に山笠を奉納する「櫛田入り」の写真が使われている。写真に「二番山笠」「上下東町 上中浜口町」とみえ、当時は4町内で当番町を務めたことが伺える。「寶玉祥四海」の標題から大正15年の山笠であると考えられる。〔第37回新収蔵品展〕

扇子

博多祇園山笠復興記念の扇子。昭和20(1945)年6月19日の福岡大空襲で博多の3分の2が焼失し、山笠は中断を余儀なくされた。しかし、昭和23年に復活し、七流の舁き山が櫛田入りを果たした。この扇子はその際に、櫛田神社より復興記念としてつくられたものと考えられる。〔第37回新収蔵品展〕

法被(唐原山笠)

東区唐原の須賀神社(祇園宮)で7月に行われる「唐原の祇園山笠行事」(福岡市無形民俗文化財)で使用された乳児用法被。生後初めて山笠に参加する「初山笠」の際に着用するもので、博多祇園山笠と同様に化粧まわしをつける。〔第37回新収蔵品展〕

伊勢田晃嗣氏(昭和13年生)の誕生に伴い親族が誂えた鎧兜。初節供のほか櫛田神社の「須賀大神御鎮座一千年祭御幸式」(昭和15年)における稚児鎧兜の参列に晃嗣氏の姉・礼子氏が着用した。その後長男・治氏に引き継がれ、第47回式年遷宮(昭和49・50年)でも使用された。〔第37回新収蔵品展〕

大祓人形

髙宮八幡宮(南区高宮)の夏越祭で使用される厄払いの人形及び、獅子まつりで参加者が身に着ける御守。夏越祭の後に行われる獅子まつりは、太鼓をならしながら、子どもたちが神輿に乗せた獅子を担いで周辺の家や店に「カドヅケ」に訪れる。訪問先では神輿の下をくぐる姿が見られる。〔第37回新収蔵品展〕

守札

髙宮八幡宮(南区高宮)の夏越祭で使用される厄払いの人形及び、獅子まつりで参加者が身に着ける御守。夏越祭の後に行われる獅子まつりは、太鼓をならしながら、子どもたちが神輿に乗せた獅子を担いで周辺の家や店に「カドヅケ」に訪れる。訪問先では神輿の下をくぐる姿が見られる。〔第37回新収蔵品展〕

注連縄

西区姪の浜3丁目2区町内(旧宮前町)で飾られる注連縄。毎年6月30日に同町内で行われる「姪浜の獅子まわし」の際に、同町内の住吉神社でお祓いした後、各戸に配布される。各家では、6月30日以降に取り付け、1年間そのままで過ごす。〔第37回新収蔵品展〕

菱足とよばれる博多鋏。寄贈者もしくは家族が博多の神仏の夏季大祭の際に、福引の景品としてもらったもの。入手年代と「宇」の刻印から、髙栁商店(博多区冷泉町)の髙栁宗一郎の作と考えられる。この鋏は、裁縫時など日常づかいの道具として使用されていた。〔第37回新収蔵品展〕

御札

旧博多上魚町(現博多区上呉服町)にある葛城地蔵尊の御札。毎年正月に30~40枚ほど版木で刷り、正月、5月、9月の地蔵の縁日(24日)に、参列者に配られる。1年間神棚などに飾り心願成就を願う家もある。〔第37回新収蔵品展〕

大灯籠絵「石堂子授地蔵尊之由来」

石堂地蔵尊(博多区千代)の地蔵盆の際に、道辻に飾られた巨大な灯り「大灯籠」(同地では「エマ」「トウロウエマ」と呼ぶ)に描かれていた絵。説話「刈萱道心石堂丸」における加藤繁昌の子授祈願の場面が描かれている。平成時代の千代地区の集合住宅建設にともなう環境の変化により飾られなくなった。〔第37回新収蔵品展〕

許衡廉潔を示す図

明治19 (1886) 年に発行された『修身教授掛図教授解』中の図に酷似しており、これらの資料は「修身教授掛図」を写したものの一部と考えられる。教授掛図は、明治時代以降、一斉授業の際の大型視覚教材として欧米から取り入れられた。〔第37回新収蔵品展〕

第3章 福岡のくらし

石錘

近現代の網漁との比較から、魚の通り道に仕掛けて魚を捕る刺網漁などで、網が動かないよう固定するおもりと考えられている。石材としては軟らかく加工しやすい滑石でつくられることが多く、底面を平らに加工することで安定しやすくしている。

片口鉢

玄界島沖西方約2kmの海底から、漁の底引き網にかかって引き上げられたもの。モンゴル軍の船が発見された鷹島海底遺跡(長崎県松浦市)の資料に似たものがあり、蒙古襲来などに関わり海に沈んだものかもしれない。14世紀前半の新安沈没船資料(韓国)にも似た資料がある。〔第37回新収蔵品展〕

ヘルマン膅外弾道学

アメリカ合衆国の海軍大尉エルンスト・E・ヘルマンが海軍士官候補生用にまとめた弾道学(砲弾の弾道などに関する学問)の教科書から、砲戦指揮に関する部分を訳した書籍。印刷者である九州兵器は、渡辺鉄工所の水雷や魚雷部品の製造を行う部門が分離独立する形で、昭和18(1943)年に成立した。

〔辞令〕(姪浜尋常高等小学校訓導)

姪浜尋常高等小学校(現 姪浜小学校)代用教員の山﨑ミツノを福岡県公立小学校の正教員に任命する辞令。山﨑一家は前年8月まで台湾・台北市に在住していた。この辞令の翌日から、小学校は戦争の時代に即した国民の錬成を目指す「国民学校」に改称する。〔第37回新収蔵品展〕

卒業証書

女性教員の養成機関であった福岡県女子師範学校の卒業証書。同校は、福岡県師範学校から女子部が独立する形で明治36(1903)年に成立した。本科は二部制で、第一部は高等小学校卒業程度の学力の者を入学対象とし、修業年限は4年であった。本科卒業生は小学校教員の免許を取得できた。〔第37回新収蔵品展〕

ふぢのかをり 昭和七年度号 福岡県糸島高等女学校

糸島高等女学校は尋常小学校を卒業した女子を対象とする中等教育機関。同窓会は学校行事や卒業生の情報を掲載する会誌を発行した。昭和6年度号から同窓会誌と校友会誌が一冊になった。同校は昭和24(1949)年に県立糸島中学校と統合し、現在の福岡県立糸島高等学校が成立する。〔第37回新収蔵品展〕

同窓会雑誌 第四拾八号 修猷館同窓会

福岡県立中学修猷館(現 修猷館高等学校)の同窓会誌。大正9年(1920)発行号には、冒頭にパリ講和会議に関する大正天皇の詔書を掲載し、ついで館長白坂栄彦が詔書の内容にふれつつ日本の現状への所感を記す。在校生による論説・文芸の他、先生を含む関係者の消息などを収録した。〔第37回新収蔵品展〕

糸島地理唱歌

佐賀県師範学校(佐賀大学教育学部の前身のひとつ)の島村吉門が作曲、福岡県師範学校(福岡教育大学の前身のひとつ)の山下房吉が歌詞の校閲を担当した糸島郡の歌。郡内の町村や官公庁、学校をはじめ、山や河川、寺社、名勝などを歌詞に取り入れる。〔第37回新収蔵品展〕

海軍軍服 上下(正装)

大正時代から昭和時代の海軍軍人が着用した軍服で、儀式用の正装。上衣は立襟の燕尾服型。帽子、正肩章、正剣帯(ベルト)が付属する。上衣の襟章は尉官を示す意匠であり、正肩章には大尉以上が付ける総(金モール)がある。日中戦争開始後の昭和13(1938)年7月以降、正装は着用を停止された。〔第37回新収蔵品展〕

海軍制帽

大正時代から昭和時代の海軍軍人が着用した軍服で、儀式用の正装。上衣は立襟の燕尾服型。帽子、正肩章、正剣帯(ベルト)が付属する。上衣の襟章は尉官を示す意匠であり、正肩章には大尉以上が付ける総(金モール)がある。日中戦争開始後の昭和13(1938)年7月以降、正装は着用を停止された。〔第37回新収蔵品展〕

アルバム(支那事変記念)

日中戦争に従軍した部隊の写真をおさめたアルバム。写真は日中戦争開始から1年後の昭和13(1938)年に撮られたもの。部隊の隊員の写真、都市の風景などを撮影し、各写真に簡単な見出しを付ける。〔第37回新収蔵品展〕

東宮殿下御結婚記念写真画報 

摂政裕仁親王(のちの昭和天皇)と久邇宮邦彦王の第一女子、良子女王の結婚を記念して発行された雑誌。朝日新聞社が撮影した、裕仁親王の幼少期から立太子、洋行の写真や久邇宮の集合写真、結婚に関する諸行事の写真を掲載する。〔第37回新収蔵品展〕

東亜勧業博覧会記念画報

東亜勧業博覧会は、福岡市西公園下の大堀埋立地で昭和2(1927)年3月から5月にかけて開催された。博覧会開催を記念して発行された写真誌は、博覧会の盛況や福岡市内の名所、発行者の福岡日日新聞社が博覧会場で開催したイベントの様子を紹介する。〔第37回新収蔵品展〕

片江共有山林組合会株券(1株)

早良郡樋井川村片江(現 城南区)の山林組合会の株券。株券は、片江地区の各戸1人に交付された。他町村や同じ村内の異なる地区の人間は株券を所有することはできなかった。地域住民のみが株券を持つことで、共有山林を地域住民の共同利用地とする仕組み。〔第37回新収蔵品展〕

大東亜戦争国庫債券(50円)

昭和16(1941)年12月にはじまった太平洋戦争の戦費を調達するために発行された国庫債券(国債)。年利3.5%で、昭和35年3月1日までに償還するとされた。昭和の戦時中には、国民に国債の購入がすすめられた。物価が高騰したため、戦後には相対的な価値が極めて低くなった。〔第37回新収蔵品展〕

絵画(兵隊さんに朝夕感謝)

春吉国民学校(現 春吉小学校)の生徒が描いた絵。上部に食卓を囲み目をつぶる家族、家族に旭日旗をかかげて行進する兵士の姿を描く。直接戦闘に参加しない銃後の国民のあるべき姿として、日本本土にいても常に前線兵士への感謝の気持ちを持ち続ける様子を表している。〔第37回新収蔵品展〕

絵画(慰問袋)

春吉国民学校(現 春吉小学校)の生徒が描いた絵。日の丸模様の袋に何かをつめる女性と男の子、手紙を書く女の子を描く。前線兵士に日用品や感謝の手紙を入れた慰問袋を送ることは、銃後の国民の役割だった。〔第37回新収蔵品展〕

フライ返し

日本アルミニウム製造所は明治34(1901)年創業で、株式会社UACJ金属加工の前身のひとつ。昭和時代の戦前期に福岡で開催された博覧会にも、その製品が出品された。明治時代に入り西洋料理が入ってくるとともに、フライパンやフライ返しといった調理道具も取り入れられた。〔第37回新収蔵品展〕

箸付弁当箱

アルミ製品は軽くて丈夫な特長から、明治時代中頃から軍用品がつくられはじめた。酸に弱いという欠点があった(梅干しを入れると穴があくこともあった)が、アルマイト加工が発明されたことで克服され、昭和時代に入ると「アルマイトの弁当箱」が一般にも普及した。〔第37回新収蔵品展〕

獅子印ライオン歯磨

小林商店は現在のライオン株式会社の前身。その製品は、昭和時代戦前期に福岡で開催された博覧会などにも出品された。粉ハミガキは、戦時期には兵士への慰問品のひとつとして送られることも多かった。〔第37回新収蔵品展〕

潤製歯磨

明治24(1891)年に設立された小林商店は、現在のライオン株式会社の前身。夜歯をみがく習慣がある人が1割程度しかいなかった大正時代から、小林商店は「夜寝る前に歯をみがくこと」を提唱し、口腔衛生思想の啓発普及活動を展開した。〔第37回新収蔵品展〕

手巻きタバコ巻器

寄贈者の曽祖母・吉倉ツルが使用した手巻きタバコ巻器。手巻きタバコ巻器は、戦中戦後の極度の物資不足のなかで考案された手製の喫煙道具。ベルトの上にタバコの葉を入れ、ローラで挟み込み紙を巻き付ける。〔第37回新収蔵品展〕

福岡地典 29年度限定版

昭和29(1954)年度版の福岡市の住宅情報地図。通りに町名を付け、区画ごとに所有者、店舗等の名称を記す。商店が密集する新天町商店街(現 中央区天神)については、別に詳細な地図を掲載する。〔第37回新収蔵品展〕

アルバム(結婚式、家族写真、三隅神社、旅行、大博劇場、廣川家先祖肖像画ほか)

博多区千代で代々大工職を営んでいた廣川家の明治~昭和時代の写真。近隣の神社や商店の建築だけでなく、戦後には大博劇場(1920-72・現 博多区上呉服町)の大道具を担当するなど様々な活動をしていたことがうかがえる。〔第37回新収蔵品展〕

観覧券(ふくおか'82大博覧会)

ふくおか’82大博覧会の観覧券。この博覧会は、西日本新聞社の主催で昭和57(1982)年3月から5月にかけて大濠、舞鶴公園一帯を会場に開催された。観覧券のデザインは、人力車を引く車夫と客をオープンリール式のレコーダー、電話、電車などのイラストをコラージュして表現する。〔第37回新収蔵品展〕

ふくおか’82大博覧会会場案内図

ふくおか’82大博覧会の会場図。会場には、あすのエネルギー館(九州電力)、電気通信館(電電公社、現NTT)などの企業ピリオンのほか、家電メーカーが製品を展示する第1、第2生活科学館などがあった。野外には前年に宇宙空間を初飛行したスペースシャトル「コロンビア」の実物大模型が展示された。〔第37回新収蔵品展〕

映画ポスター(奇巌城の冒険)

中央区荒戸にあった銭湯に掲示された映画ポスター。イランでロケーションが行われた冒険映画。太宰治の『走れメロス』を原案とするストーリー。東中洲の映画館で上映された際のもの。平成時代はじめまで、東中洲は映画館がたちならぶ街だった。〔第37回新収蔵品展〕

映画ポスター(東宝名画座)

中央区荒戸にあった銭湯に掲示された映画ポスター。東中洲の映画館のもの。名画座では、旧作を格安の料金で上映していた。このポスター当時、封切映画館の入場料は500円、喫茶店のコーヒーが100円程度だった。〔第37回新収蔵品展〕

鰻掻き(ウナギカキ)

寄贈者の父・毛利通友氏が室見川や金屑川ほか福岡周辺の河川で使用した鰻とりの道具。水底を掻き、泥の中に潜む鰻を長い柄の先に取り付けた鉄製の鉤に引っかけてとる。福岡でもかつては盛んに行われていた。毛利氏の鰻掻きの腕前は、周辺の人びとにもよく知られていたという。〔第37回新収蔵品展〕

寄贈者の母が、祖母から譲り受けた装身具。婚礼やそのほかの特別な日に身に着けたもの。〔第37回新収蔵品展〕

寄贈者の母が、祖母から譲り受けた装身具。婚礼やそのほかの特別な日に身に着けたもの。簪には、2尾の鯛が腹あわせになった掛け鯛があしらわれており、めでたさや長寿などの意味が込められた縁起のよい意匠である。〔第37回新収蔵品展〕

寄贈者の母が、祖母から譲り受けた装身具。婚礼やそのほかの特別な日に身に着けたもの。〔第37回新収蔵品展〕

バックル

寄贈者の母が、祖母から譲り受けた装身具。婚礼やそのほかの特別な日に身に着けたもの。〔第37回新収蔵品展〕

這子

肥前鹿島鍋島家の出身であった寄贈者の曽祖母が大正時代に嫁入りする際、持参した這子。はいはいする乳幼児をかたどった人形で、子の誕生時に縫い、加持祈祷を経て、魔除けのために子の枕元に置く。特に女性は、生涯身近に置いた。本資料も、古い人形の規式に則り制作されている。〔第37回新収蔵品展〕

布団

豊州炭鉱(田川郡川崎町)の経営者宅で、使用された客用の布団。朱の絹地に、鶴と竹梅、紫の絹地に鳳凰と菊・桐の吉祥柄があしらわれている。豊州炭鉱は明治23 (1890) 年頃に池尻炭鉱として始まり、昭和35 (1960) 年の閉山時は、上田尊之介氏の経営であった。〔第37回新収蔵品展〕

掛布団

寄贈者の祖母・石橋イチ(1881-1933)が自ら布を織り仕立てたとされる婚礼布団。井桁紋に貝桶があしらわれている。イチは、針仕事や機織が得意で、嫁ぎ先にも織機を持ち込んだと伝わる。戦後、掛布団はイチの息子の妻・セツ子が現在の形に仕立て直した。〔第37回新収蔵品展〕

ナイフ形石器

日本の旧石器時代を代表する道具。地域や時代によって作り方や形態が異なる。切る・削る用途のほか、棒の先端につけて槍として使われた。彫刻刀の切り出しナイフのような刃部をもつ2点は、比較的古いもので、資料的価値が高い。〔第37回新収蔵品展〕

ナイフ形石器

日本の旧石器時代を代表する道具。地域や時代によって作り方や形態が異なる。切る・削る用途のほか、棒の先端につけて槍として使われた。彫刻刀の切り出しナイフのような刃部をもつ2点は、比較的古いもので、資料的価値が高い。〔第37回新収蔵品展〕

ナイフ形石器

日本の旧石器時代を代表する道具。地域や時代によって作り方や形態が異なる。切る・削る用途のほか、棒の先端につけて槍として使われた。

ナイフ形石器

日本の旧石器時代を代表する道具。地域や時代によって作り方や形態が異なる。切る・削る用途のほか、棒の先端につけて槍として使われた。

台形様石器

上辺を刃とする利器。今から約29,000年前に、現在の鹿児島県錦江湾北部に位置する姶良カルデラが大噴火した。本資料は、各地に降灰したこの火山噴出物の下から出土した石器として知られている。九州北部では、姶良カルデラの大噴火以前の石器は少なく、市内でも最古に近い。

第4章 福岡の職人の仕事

梵鐘

元禄2(1689)年、香椎廟(香椎宮)の梵鐘として博多の鋳物師である磯野慶貞・慶永・正慶によって鋳造された。上部の龍頭を短頭とする模造朝鮮鐘である。明治元(1868)年の神仏分離令により、現在ほぼ散逸してしまった香椎宮の仏教遺品として非常に貴重な資料である。〔第37回新収蔵品展〕

曲物工程見本

博多曲物の製作工程見本。本工程は、曲物に使う薄板を湯で煮て柔らかくし、巻木に巻きつけて板を曲げ(同店は昭和10(1935)年から曲げ付け機を使用)、板の端「マチ」同士を重ね合わせた後の工程で、木鋏ではさみ、留具で仮止めして形を整える状態を示している。〔第37回新収蔵品展〕

ポッポ膳

松竹梅や鶴亀が泥絵の具で描かれた御膳。博多では3歳になった子どもにポッポ膳を与え、「お膳座り(真菜の祝い)」という祝儀が催される。これは、それまで母親の膳から取り分けてもらっていた幼児が初めて一人前の食事を箸でとり始める通過儀礼の一種である。

ポッポ膳

松竹梅や鶴亀が泥絵の具で描かれた御膳。博多では3歳になった子どもにポッポ膳を与え、「お膳座り(真菜の祝い)」という祝儀が催される。これは、それまで母親の膳から取り分けてもらっていた幼児が初めて一人前の食事を箸でとり始める通過儀礼の一種である。

鑑札

明治11 (1878)年、御笠郡大野村雑餉隈に設置された「御笠席田 那珂郡役所」が発行した曲物職人の営業許可証で、柴田德商店・5代目の德作氏が使用していたもの。近代以降、行政による管理のもと曲物作りが行われていたことを示す資料。〔第37回新収蔵品展〕

タペストリー

博多織の端切れを繋ぎ合わせて製作したタペストリー。昭和42(1967)年に設立した「おびぜん織物株式会社」(後に西村織物株式会社と合併)の2代目社主である西村英俊氏が製作したもの。〔第37回新収蔵品展〕

飴切鋏

博多鋏の製作技術を用いたと考えられる飴切鋏。飴を切りやすくするためであろうか、刃同士はゆるく留められている。使用者である柴田氏は、昭和29(1954)年に「太郎飴本舗 松尾商店」からのれん分けし、平成3(1991)年まで「太郎飴本舗 西新支店」(早良区西新)を営んでいた。〔第37回新収蔵品展〕

葉書(当座口振込副報告書)

松尾商店と日本国有鉄道志免鉱業所(糟屋郡志免町・昭和24年改称)の間の金銭の振込にかかる記録。同所は、志免炭坑(明治22・1889年新原採炭所として開坑~昭和39年閉山)で石炭採掘を行っていた。炭坑労働者などに飴を販売していたのかもしれない。〔第37回新収蔵品展〕

判取帳

昭和時代、櫛田前町(博多区冷泉町)などにあった飴屋「太郎飴本舗 松尾商店」で使用された帳簿。昭和31~32年の記録が記されている。同店は十日恵比須神社(同区東公園)の正月大祭や櫛田神社(同区冷泉町)の七五三などで授与される飴を作っていた。〔第37回新収蔵品展〕

博多人形(童子)

ニューヨーク州の骨董市で発見された博多人形。終戦後、アメリカ進駐軍が日本の商業施設を接収して設けた売店(PX=購買部)で販売された、PX人形と呼ばれるものだろう。日本らしいPX人形が人気を博すため、昭和20~30年代は海外輸出用の風俗人形が盛んに作られたという。〔第37回新収蔵品展〕

博多人形(赤子)

ニューヨーク州の骨董市で発見された博多人形。終戦後、アメリカ進駐軍が日本の商業施設を接収して設けた売店(PX=購買部)で販売された、PX人形と呼ばれるものだろう。日本らしいPX人形が人気を博すため、昭和20~30年代は海外輸出用の風俗人形が盛んに作られたという。〔第37回新収蔵品展〕

陶器ポンプ

高取焼は江戸時代初期に誕生し、茶器は福岡藩の名産品であった。江戸時代の中ごろから西皿山(現 早良区高取)で生活用品を製作。明治時代以降は日用雑器や置物、産業・建設用具など幅広く製造。井戸用ポンプには木製に次いで陶器が用いられ、大正時代以降は鋳鉄製のものもつくられた。〔第37回新収蔵品展〕

法被(宮本屋)

元岡村(西区元岡)にあった造り酒屋・宮本屋で使用された法被。宮本屋は、宮浦(西区宮浦)の黨又蔵が文化元(1804)年に造り酒屋の権利を買い取って酒造業を始めたと伝わる。2代目市郎以降、又市、又五郎、幸太郎と続いたが、戦時統制の影響を受け昭和18(1943)年に廃業した。〔第37回新収蔵品展〕

酒瓶(瑞穂)

磁器製の酒樽。元岡村(西区元岡)にあった造り酒屋「宮本屋」の貸出用の酒樽で、樽の上部から酒を入れておき、下から出す仕組み。運搬しやすいように上部には取っ手が付いている。また表面には、宮本屋で造られていた清酒「瑞穂」の銘や樽番号が記されている。〔第37回新収蔵品展〕

酒瓶(瑞穂)

磁器製の酒樽。元岡村(西区元岡)にあった造り酒屋「宮本屋」の貸出用の酒樽で、樽の上部から酒を入れておき、下から出す仕組み。運搬しやすいように上部には取っ手が付いている。また表面には、宮本屋で造られていた清酒「瑞穂」の銘や樽番号が記されている。〔第37回新収蔵品展〕

Index