菅原道真
平安時代中期の悲運の学者・政治家。天神様として知られる
845-903(承和12-延喜3)
平安時代中期の学者・政治家。菅原是善(これよし)の子で、代々学者の家柄で育った。11歳で詩を作り、父を驚かせたという。元慶(がんぎょう)元年(877)に文章(もんじょう)博士となり、仁和2年(886)に讃岐守(さぬきのかみ)となって赴任した。その在任中に宇多天皇と関白藤原基経(もとつね)との対立による阿衡(あこう)事件が発生し、その際に基経に諫言した道真は宇多天皇の信任を得た。基経の死後、道真は蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢(ばってき)され、昌泰2年(899)に基経の子の藤原時平(ときひら)が左大臣になると、道真は右大臣に任じられ、学者としては異例の出世を遂げた。しかし、藤原氏の反感は強く、延暦元年(901)時平の讒言(ざんげん)による罪を得て大宰権帥(だざいのごんのそち、九州大宰府[福岡県太宰府市]の現地での実質的長官)に左遷され、その地で死去した。この間、寛平6年(894)に遣唐使の中止を進言したことは有名。『類聚国史(るいじゅうこくし)』を撰し、『日本三代実録』の編纂にも関わった。漢詩文集として、『菅家文草(かんけぶんそう)』と左遷後の作品を集めた『菅家後集(かんけこうしゅう)』がある。
道真の死後、そのたたりと称される異変が相次いで起こり、延長元年(923)に罪を取り消されて本位本官に復し、正暦4年(993)には正一位太政大臣を贈られた。その一方、民間では京都北野に祠(のちの北野天満宮)が建てられ、天満天神(てんまんてんじん)として祀られており、後世には文道の神として全国的に信仰された。なお、道真の亡霊は御霊(ごりょう)となって祟(たた)ると信じられ、それを鎮めるための御霊信仰が広まった。また、その霊は雷神としても猛威を振るい、その伝承を集大成したものが鎌倉時代初期の『北野天神縁起』である。
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北野天神縁起絵巻の菅原道真
渡唐天神 菅原道真(天神)が渡唐して参禅したという伝説による図。冠をかぶり、道服を着て梅花の枝を持つ。
浮世絵に描かれた菅原道真
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福岡県太宰府市宰府に鎮座する神社で、菅原道真を祀っています。前身は大宰府に左遷され、この地で亡くなった道真の墓地に建立された神殿とされています。
京都市上京区馬喰町に鎮座する神社で、祭神は菅原道真。天慶5年(942)に多治比文子(たじひのあやこ)が神託によって自宅の辺りに道真を祀り、天暦元年(947)に現在地に移転したといわれています。
東京都文京区湯島に鎮座する神社で、祭神は天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)と菅原道真。
太宰府天満宮HPより。幼少期から晩年期までの生涯が、画像入りで紹介されている。
北野天満宮HPより。ほかに「ご由緒」や「天神さんの七不思議」なども紹介されている。
湯島天神HPより。縁起および「天神信仰」「道真公の御事歴」「天神さまと梅」「天神さまと牛」についての解説が載る。
日本芸術文化振興会が運営するサイト「文化デジタルライブラリー」の演目解説より。竹田出雲らの合作による人形浄瑠璃で、延享3年(1746)初演。近松門左衛門作「天神記」の影響を受け,菅原道真の配流,天満天神縁起を主筋とする。詳細については、トップ画面の「Enter」をクリックして閲覧する。
富山県富山市の「人形の愛児堂」HPより。菅原道真の生い立ちが、わかりやすく紹介されている。
参考文献
- 坂本太郎 著,吉川弘文館
- 大岡信 著,岩波書店
- 村山修一 編,雄山閣出版
- 「菅原道真」の項
- 「菅原道真」の項
- 「菅原道真」の項
- 「菅原道真」の項
- 歴史学研究会 編,岩波書店
- サンプルページ「菅家文草」の項
- サンプルページ「天神祭」の項
- サンプルページ「菅原伝授手習鑑」の項
