『震浪災害土木誌』岩手県土木課, 昭11 / 国立国会図書館デジタルコレクション
津波の記録ー明治三陸沖地震津波と昭和三陸沖地震ー
明治三陸地震津波(明治29年6月15日 旧暦5月5日)
明治29年6月15日、岩手県沖でマグニチュード8¼の地震が発生しました。
津波の記録ー明治三陸沖地震津波と昭和三陸沖地震ー
地震による直接的な被害はありませんでしたが、津波が北海道から牡鹿半島にいたる海岸に来襲し、死者は21,959名、家屋流出全半壊1万戸以上、船の被害約7千隻という多大な被害をもたらしました。津波の高さは38.2mにも達したところもあり、さらにハワイやカリフォルニアにも波及しました。
【宮城県】
災害編、究理編、救済編、雑録の4章で構成された資料。掲載画像は災害編にあり、牡鹿郡鮎川村にあった陸軍陸地測量部の設置した「自書潮儀」(検潮儀:潮の干満による海面の高低の自動測定機)の記録。図の解説文には「八時三十分に至りては突如として襲来せし激浪は一米四〇(四寸六分)余の高度に昇り凡そ五分間にして降下し爾後四五分毎に一昇一降其状宛も不規律なる鋸歯の如く或は駢列せる犬牙の如し」とあります。また、救済編によると、翌16日に宮城県知事は自ら被災地へ視察に向かい、19日に帰庁し、その翌日には本庁内に海嘯臨時部を立ち上げたなど、当時の様子が詳細に記録されています。
日本赤十字社宮城支部の救援活動の記録。赤十字社仮病院は11か所設けられ、7月31日まで救護にあたっており、「救護員派遣」の項では日本赤十字社の医師や看護師の数だけでなく、他に陸軍や医学部教員学生の数の記録や、篤志救護員も多数集まり、中には外国人もいたとの記述があります。また「海嘯惨状ノ図」には、被災地の絵とその解説が多数掲載されています。画像は、本吉郡大谷村の仮病院。
【岩手県】
岩手県もこの津波により大きな被害を受けました。遠野町に住む山奈宗真(やまなそうしん) は、自ら津波の被害調査を県に志願して被災地を調査し、約40日間で総延長約700㎞という広範囲を踏査して、詳細な記録をまとめました。本書は、山奈が調査した41町村の被災状況と地図を収録。掲載画像は陸中国釜石町の地図。海や川が青、浸水地域が黄、畑や宅地が赤、山野が緑に色付けられ、海上の矢印は津波の侵入した方向を表しています。赤い四角と線は鉄道ではなく、民家所在地と道路を示すものです。
本書は6つの表で構成されており、被害状況だけでなく津波襲来後の各町村、集落の人口や家屋、寺、役場、学校、田畑、船舶、漁網漁具、家畜、水産加工所の現存数もわかる内容となっています。
山奈は養蚕や馬や牛の品種改良の研究を重ね、製糸場や農業試験所を作り、牧場を経営する実業家でした。さらに当時、全国唯一の私立図書館とされた信成書籍館を設置するなど、文化の面でも尽力しています。本書には津波調査に関する記述はほとんどありませんが、山奈の生い立ちや実業家としての実績が詳しく書かれています。
昭和三陸沖地震(昭和8年3月3日)
昭和8年3月3日午前2時32分14秒に、三陸沖でマグニチュード8.1の地震が発生しました。
【中央気象台】
地震による被害は少なかったものの、津波が太平洋岸を襲い、三陸沿岸の被害は極めて大きく、死者・行方不明者3,064名、家屋流出・倒潰・浸水などの被害が約1万戸にも及びました。波高は綾里湾で28.7mにも達しました。本書は、中央気象台が、津波の翌日に技師や技手を宮城県、岩手県に派遣し、その実地調査の概要を短期間で取りまとめ、津波から10日後に「概報」として発行されました。
左の「概報」の後、昭和8年8月25日に発行された報告書。冒頭の「口絵」には津波の浸水域や高さが記載された地図、写真、各地の地震計や検潮儀の記録などが多数収録されています。「概報」では踏査報告は岩手県のみでしたが、本書には宮城県から北海道まで各地の測候所からの報告が寄せられています。また、筑波山測候所から観測された津波に伴う発光現象についての報告や、津波発生時に海上を航行していた船からの報告もあります。
【宮城県】
地震により被災地では通信網が断裂し、被災地の状況が把握できなくなり、石巻測候所では、すぐに調査員を6班に分けて県内各地に派遣しました。本書は各班の踏査報告と地震、津波の研究報告で、昭和8年3月30日に発行されました。巻末の「地震津浪膝栗毛」には調査員が被災地で聞いたこぼれ話、津波や被害状況への考察などがあります。
本書は、昭和8年の昭和三陸沖地震による津波被害と旱魃による農作物の被害状況や対応をまとめた研究報告です。前半は津波被害を受けた農作物への被害状況や、土壌調査とその改良、その後の農作物の生育状況の報告となっています。浸水した畑で育った作物と通常の作物の比較写真も掲載されています。
【岩手県】
千ページを超える記録集。総記、被害並応急措置、救護応援、復旧事業、雑纂の5編に加え、余録「地震津波に関する学術記録」と追緝「復興計画」で構成されています。写真も多数収録されており、被害前の風景や、被害直後の様子、復興した街並みなどを見ることができます。資料からは、当時、当時の知事の発言の記録もあり、満州事変の時期で三陸地方からも多くの人々が出征していた時代背景が窺えます。
本書は岩手県内の被災地で行われた土木工事の記録。応急工事、復旧工事などについて、場所や工事内容、経費などが表にまとめられています。完成した防潮提や護岸工事の写真もあります。
震災当時の記録をもとに作られた資料
当時の記録資料をもとに新しい資料が作られています。地域別、年代別の記録を一覧できる資料や、被災地にしかない希少資料、文書類、写真などの資料を発見できます。
本書は明治以降、岩手県に起こった災害関係の行政資料を集めたもの。「明治29年三陸津波災害」では県令綴や海嘯関係例規(下閉伊郡役所)綴などの行政資料から明治三陸地震津波を振り返ることができます。
昭和58年11月に開催された「岩手県の災害を語る座談会」の記録もあり、昭和三陸沖地震当時、応急対策や復旧に追われた現場の様子が窺えます。
明治29年の巨智部忠承(こちべただつね)の論文。津波の原因として「潮流の衝突」、「海底の陥落」、「海床の噴火」、「海底の地滑り」など様々な説が挙げられていますが、原因は特定されておらず、当時はまだ津波の研究が進んでいなかったことが窺えます。
津波防災のはじまり
明治三陸地震津波の記録には被害状況、救助活動、津波の研究報告などがありますが、その後の防災計画や対策などについてはほとんど記述がありません。
昭和三陸沖地震の記録には復興計画や「予防」という文字が見られるようになり、津波対策を目的とした報告書も発行されています。
昭和三陸沖地震の後、昭和8年6月11日に文部省震災予防評議会から発行された資料。「津波予防法として最も推奨すべきは高地への移転なりとす」と高地への移転を防災対策の第一に挙げています。他に、防波堤や防潮林の設置、高台への避難道路の敷設などの対策が紹介されています。施設面での対策だけでなく一般の人々に対する避難の心得も紹介されています。
昭和三陸沖地震の被災地で水産業並びに漁村の復興と、津波災害予防対策を立案することを目的に行われた調査の報告書です。宮城県、岩手県、青森県の被災地を4区に分けて調査を行い、その復命書が区ごとに掲載されています。復命書には被害状況や地形を考慮して立てられた対策案が、詳細な図表とともに収録されています。
被災地では被害を軽減するために津波の知識や避難の心得を広める資料が作成され、子どもたちへの防災教育の必要性も論じられるようになりました。
上述の『津浪災害予防に関する注意書』を編集した地震学者今村明恒(明治3年~昭和23年)は、震災予防評議会の一員でもあり、地震予知の研究にも力を注いだ人物でもありました(第141回常設展示「なゐふる」への外部リンク)。
まえがきに「地震津浪の常識を貯へておいて非常時の用意をすることが最も大切なことゝ思ふのであります。」とあり、被災地で津波の知識を広めるために発行された小冊子。昭和三陸沖地震の後に釜石小学校で行われた地震学者今村明恒の講演「地震並津浪の常識」の要旨をはじめ、文部大臣を会長とする震災予防評議会の「津波予防の常識」や新聞記事、大学教授や技師の談話など幅広い津波関連情報を紹介しています。
今村たちの努力が実り、「小学教材としての地震」の章には、尋常小学教科書に地震の項目として「ものごとにあわてるな」が、津波については「稲むらの火」が載るようになりました。(「稲むらの火」については次ページ参照。)
本ページはダイジェスト版です。ぜひ、オリジナルサイト:https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry8/1.html(国立国会図書館HPへ飛びます)もご覧ください。