西洋版画の魅力 オンライン展覧会
東京富士美術館で2021年12月10日から2022年1月30日まで開催された企画展「西洋版画の魅力」展のオンライン展覧会です。
ごあいさつ
ヨーロッパでは14世紀以降、製紙法の伝播や印刷技術の発達に伴って、本の挿絵や絵画の記録あるいは新しい芸術表現として版画の技術が発展してきました。
同じ視覚情報を大量に複製できる版画は、正確な図版を必要とする知識や情報を、広範囲に伝達できる手段として画期的なもので、多くの学術書が図版とともに出版され、人類の自然科学における発展を促しました。また芸術においても、巨匠の作品を複製した版画の数々によって、遠く離れた地で巻き起こっている芸術の新しい息吹に触れることが可能となり、芸術家たちのインスピレーションの源となりました。やがて写真技術の登場とともに、版画はその役割を変え、画家の芸術表現の手段として成立していきます。
本企画では、東京富士美術館が所蔵する西洋版画の中から、デューラー、ゴヤ、ドラクロワ、ミレー、マネ、ピカソといった画家たちの版画作品を中心に展観します。それぞれの画家たちが、色彩豊かな油彩画の世界とは違った、モノトーンの版画というジャンルで、どのような表現を追求していったのか。西洋版画の魅力の一端に触れて頂ければと思います。
目次
版画史の巨人 デューラー
ドイツで活躍した画家アルブレヒト・デューラー(1471-1528)は、版画史においてもっとも重要な画家の一人です。優れたデッサン力の持ち主だったデューラーは、人体の表現や三次元的な空間表現において、それまでにない表現を打ち立てました。彼の作品には、線の芸術としての木版画の最高水準を見ることができます。また彼はエングレーヴィングの分野でも傑作を数多く残しています。
そのデューラーから大きな影響を受けた画家に、マルカントニオ・ライモンディ(1475頃-1519頃活動)がいます。デューラーの版画を研究した彼は、のちにラファエロの素描に基づいた版画を多数制作し、ラファエロ様式がヨーロッパに広がる一助となりました。16世紀にジョルジョ・ヴァザーリが書いた芸術家の伝記『画家・彫刻家・建築家列伝』に、彼の名前と肖像を見ることができます。
複製版画はコピーにあらず
作者自身の着想によらず、他の芸術家が創作した絵画や素描、彫刻などを版画化したものを、「複製版画」と呼びます。複製といってもオリジナルの単なるコピーという意味ではありません。油彩や水彩、クレヨンなど色々な技法で描かれた作品を、版画という白と黒の線的表現で表現するため、そこには版画家の様々な創意工夫が込められているのです。
そのようにして生み出された複製版画は、写真のない時代において、オリジナル作品の記録という意味にとどまらず、その構図や形態、様式を広く世に知らしめるという重要な役割を担っていました。美術史に名を残した巨匠たちの影響力の影には、オリジナル作品の素晴らしさを的確に伝える版画の存在があったのです。
1753年のサロン出品作。緻密なマティエール、絵具の光沢、落ち着いた中間色の色調、影の部分にも感じられるような繊細な光の表現、思索的で重厚な人物のたたずまい、室内の静謐で瞑想的な空気など、シャルダンらしい魅力にあふれる小品。彼の約40年間にわたる作画活動は3つの時代に区分されるが、その中間期にあたる時代が「風俗画の時代」(1730年代から1750年代初め)である。シャルダンの「静物画」は、華麗で女性的な優美さを好んだ宮廷では人気がなく、一部の目利きや画家、収集家に支持されるのみであったが、この「風俗画」の顧客層には外国の有力な諸侯も名を連ねるようになった。この時期の最も代表的な作品としては、《独楽を回す少年》《食前の祈り》(ともにルーヴル美術館蔵)などがある。シャルダンは、スウェーデンのルイーズ・ウルリック王妃のために1749年、《デッサンの勉強》と《良き教育》の2点を贈った。このうち先に完成したのは《デッサンの勉強》の方で、1748年のサロンに出品された。その数年後、彼は再びこの1対の絵と同じ構図をもつ2対目のヴァリエーションを描いている。こちらの2点は、著名な収集家アンジュ=ローラン・ラ・リヴ・ド・ジュリのために制作され、1753年のサロンに出品されたが、このうちの1枚が本作である。本作は、1770年の競売でリヴ・ド・ジュリの許を離れ、あるスウェーデン人の手に渡った。以来その末裔によって長らく秘蔵されていたが、1979年の大規模な〈シャルダン展〉に出品され、人々の前に再び姿を現わしたのである。このとき、対をなす《デッサンの勉強》と《良き教育》の額縁には非常に珍しい特徴があった。作者の名前である〈シャルダン〉の文字が、明らかに18世紀のものと分かる黒く美しい書体で記されていたのである。今日、世界の美術館で行われているような「額縁に作者名のプレートを付ける」というような習慣は当時なかったので、最初の所有者であったリヴ・ド・ジュリが施したこのような処置は、博物館学的にみても先駆的な作業であったと評価される。なお、この秘蔵コレクションの中に含まれていた本作と対をなす《良き教育》の方は、現在テキサスのヒューストン美術館に収蔵されている。
《フォンテーヌブローのナポレオン、1814年3月31日》は、ポール・ドラローシュがナポレオンを題材に描いた二番目の作品になる。第一作の《書斎のナポレオン》が、イギリスの老貴族婦人サンドウィッチ伯爵夫人からの注文制作であったように、この作品もライプツィヒでフランスの絹製品を扱う商人であったアドルフ・ハインリヒ・シュレター(Adolf Heinrich Schletter, 1793-1853)から依頼された。シュレターの注文の背景は未詳だが、かれは美術のコレクターでもあって、80点の絵画と17点の彫刻をライプツィヒ市に遺贈し、この作品は現在ライプツィヒ造型美術館に収蔵されている。つまり原作はいまライプツィヒにある。原作に基づいてドラローシュがすこし縮小して模写した作品がパリの軍事美術館にあり、本作はナポレオン人気にあやかってかれと工房が手掛けた模写のひとつといえよう。パリの軍事美術館の作品は縦横がそれぞれ181センチメートルと137センチメートルであるから、本作はその半分より小さいということになるが、出来栄えはなかなかに見事である。サンドウィッチ伯爵夫人の注文した《書斎のナポレオン》は、原作の所在地はいまわからないが、それに基づくアリスチド・ルイの版画は、ロンドンの大英博物館に残る。それを見ると、ダヴィッドがイギリスのナポレオン讃美者ハミルトン卿の注文を1811年に受けて翌年に完成させた《チュイルリー宮殿の書斎のナポレオン》(1954年にサミュエル・クレスが購入しワシントンのナショナル・ギャラリーが所蔵)を手本にしていることはまちがいない。短くなったろうそくの下、朝の4時過ぎまで仕事をする、近衛騎兵隊の制服をまとって勲章を付けた、やや身体を画面左手に向けた精悍な姿が描写される。1812年末、ナポレオンはロシア遠征に失敗して凋落が始まるが、その前の覇気に満ちた皇帝像といえよう。伯爵夫人は縁故から制服やサーベルや煙草入れなど、ナポレオンが着用したものを借りて、画家を助けた。全身像と半身像、舞台装置など異動する点があるのは確かだが、繰り返しになるが、ドラローシュがダヴィッドの作品を参照したことはまちがいない。さて、《フォンテーヌブローのナポレオン、1814年3月31日》は、同盟軍がパリに入場した3月31日、フォンテーヌブロー宮殿の小アパルトマンに逃れてきた皇帝を描く。憔悴し怒っているようにも見えるのは、かれの置かれた状況を反映している。土埃が付着したままの靴、床に投げ出された帽子、ソファの上に無造作に置かれた書類カバン、円卓の上のサーベル、これらが皇帝の表情や仕草とともに苦境を明示する。肥満した老齢の皇帝は、かつての精悍な風貌からは程遠い。シュレターがなぜ苦境の皇帝像を注文したかはわからない。パリの軍事美術館のカタログによれば、作品の制作年は1840年である。しかるに1999年から2000年にナントとモンペリエで行われた『ポール・ドラローシュ、歴史の中の画家』展では、ケント大学のシュテファン・バンはシェルターへの支払いの記録が1845年であることを手掛かりのひとつとして、1845年の制作としている。支払いの期日と制作年を同一と考えることは問題があるが、画家は栄光の英雄ではなく不幸な英雄、殉教のイメージの創造に腐心したとする。妻がこの年の12月に亡くなるなど、妻の容態などの身辺の事情もその判定に与っているようである。ただ、画家は制作上の挫折などはこの時期は無縁だったように感じられる。この作品をロダンの《考える人》の祖型と指摘したドイツの美術史家ヴェルナー・ホフマンの見解があることを加えておきたい。造型の特徴とともに、絵画の将来に心を砕いたドラローシュの心情を、それはくみ取っての卓見といえよう。この工房作は、明暗のコントラストなど原作より強調され、皇帝の置かれた苦境をより強烈に表現する。ドラローシュとアカデミスムの画家たちの確とした技量を証しする作品といえよう。
デミドフ旧蔵のオラース・ヴェルネ自筆の貴重な作品である。1840年12月15日、100万人もの人が見守るなか、雪に覆われたパリをナポレオンの遺骸は凱旋してアンヴァリッドに到着した。1815年にセント=ヘレナ島に幽閉されて1821年5月5日に亡くなったナポレオンは、3重の棺に納められて厳重に密閉されていた。遺骸の発掘は25年前に島に着いたのと同じ10月に、豪雨のなか松明の火の下で行われた。7月革命で誕生したオルレアン家のルイ・フィリップのもとで、フランスはコレラの流行や労働者の蜂起など政治的・社会的に不安定な状況に置かれていた。そうした社会でナポレオンは美化されて、愛国的で実際より左翼的なイメージが流布されていったが、それをジャーナリスト出身の政権を狙う政治家アドルフ・チエール(1797-1877)は利用しようとした。イギリスと交渉して、遺骸の返還にこぎつけたのである。フランス海軍フランソワ・ドルレアン提督が率いる戦艦「ベル・プール(美しい雌鶏)号」で移送された遺骸を、ルイ・フィリップはアンヴァリッドのドーム聖堂の地下に安置することにした。「私の愛するフランス国民に囲まれて、セーヌの岸辺に眠りたい」というナポレオンの遺言は、かくして実現した。ナポレオンの讃美者であったオラース・ヴェルネは、画中右下の年記によれば1840年にこの作品を描いた。注文主はナポレオンの崇拝者であったアナトール・ニコラエヴィッチ・デミドフ(Anatole Nikolaïevitch Demidoff、1812-1870)である。かれは実業家で外交官であり芸術庇護者であった父ニコラ(Nicola Demidoff、1773-1828)がフィレンツェの北西に位置するポルヴェローザに、カトリック教会から購入した広大な敷地に建てたヴィラ・サン・ドナートを相続した。アナトールもドラクロワやジェリコー、ボーニントンなどに作品を注文するなど、芸術愛好家であった。1839年にはフィレンツェのヴィラ・ディ・カルトに亡命していたナポレオンの末弟で前ヴェストファーレン王国国王ジェローム・ボナパルトに紹介され、翌年にはジェロームの長女マチルド・ボナパルト(1820-1904)と結婚した。ナポレオン崇拝者のアナトールとジェローム・ボナパルトとの出会いがヴェルネの制作の始点となっていることはまちがいないが、ナポレオンの遺骸の返還と関係するかは未詳である。さりながら、ナポレオン礼讃の根強さ根深さの貴重な証左として、記念すべき作品といえよう。これは1870年のデミドフ・コレクションの売立てのカタログに掲載されている。闇夜のなか、柳の木が覆いかぶさる墓所の石の蓋をナポレオンが右手で開けて、オリーヴの枝を左手に持ち階段を上がってくる姿が表わされる。レジオン・ドヌール勲章が胸を飾り、赤い綬をかけたナポレオンの頭部を輝かしい光が照らす。この図像が「キリストの復活」のイメージを踏まえていることは言うまでもない。4つの福音書は、アリマタヤのヨセフがキリストの遺体を墓に納めたが、安息日の翌日に行くと墓の上に置かれた石が取りのけられ、天使がキリストの復活を告げたことを、異同はあるものの記している。たとえばピエロ・デッラ・フランチェスカの《キリストの復活》(サンセポルクロ市立美術館)は、この聖書の記述から画家が想像の翼を広げて創造した作品であり、その後のキリストの復活図のいわば祖型となった。ヴェルネは主の復活にナポレオンの帰還を重ねて、この作品を制作したのである。ナポレオンの頭部にさす光は、まさにニンブスといえよう。ヴェルネの作品はジャン=ピエール=マリ・ジャゼ(1788-1871)が、着色アクアチントで複製しており広く流布することになった。
1835年のサロン出品作。1832年前半の北アフリカ旅行は、彼の芸術形成にとって貴重な体験であった。本作の構図はこの旅行中に描いた画帖のスケッチから採られたことが指摘されている。ドラクロワはタンジールから地中海を東へと航行し、オラン、アルジェと寄港し、その土地の風俗を描いたのであろう。オランは大きな港町で、カスバ(城砦)やモスクなど、異国情緒に富む。本作と同一構図の鉛筆による習作がウィーンのアルベルティーナ版画素描館にあり、エッチングの版画(左右逆の絵柄)も知られている。
本作の構図は、ドラクロワが北アフリカの旅を終える直前の1832年6月20日に、タンジールからアルジェに海路戻る途中に寄港した西アルジェリアの港町オランの市壁の外側で描いた水彩素描がもとになっている。この水彩素描をもとにした作品は、他にも複数制作されており、1835年のサロンに出品された油彩画(1834、東京富士美術館)や、ドラクロワがモルネー伯爵に贈った水彩ヴァージョン(1837)などが知られる。また本作のためと思われる鉛筆の習作も知られている(ウィーン、アルベルティーナ)。
「光と闇」を描いた画家 ゴヤの四大版画
スペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)は、近代絵画の先駆者ともいわれます。スペイン王カルロス4世のもとで宮廷画家として活躍したゴヤは、1792年、重い病に倒れますが、聴覚を失いながらも生還しました。その後、彼は銅版画集の制作に取り組みますが、描かれる内容はそれまでロココ調の優雅な画風から一変します。
その後の彼は、社会の矛盾に対する批判的精神を込めた《気まぐれ》、残虐な戦争における非人間性を告発した《戦争の惨禍》、猛牛と人間の生命を賭したぶつかり合いを描いた《闘牛技》、人間の内面の不条理を表現した《妄》など、版画史に残る傑作の数々を世に送り出したのです。
プラド美術館に残る当時の注釈書には「この憐れな動物は、家系図学者や紋章官のおかげで気が狂ってしまっている。彼だけではない。」とある。ここではロバが家系図を見せながら、先祖までずっとロバであったことを誇らしげに示している。机にはロバ家の紋章も見える。貴族の血統に対するゴヤの皮肉や嘲笑が見てとれる。
「理性に見捨てられた想像力はあり得ない怪物を生む。理性と結合すれば、想像力は諸芸術の母となりその驚異の源泉となる。」プラド美術館にある本作の素描には、以下の趣旨の注釈が加えられている。「夢を見ている作者。有害な迷信を打ち破り、この作品によって真実を永遠のものとすること。これが作者の唯一の目的である。」
アビニャーニは1750〜70年にかけて活躍し、敏捷な技で名をなした闘牛士。くっきりとした線で明快な効果を持つ闘牛士と牛に対し、後方の観客席はやや弱い線で描かれ、空気遠近法的な手法が駆使されている。軽業のような跳躍に対し、牡牛は攻撃目標を闘牛士を支える跳躍の棒に替えている。明るい地面を背景に筋肉質の牡牛の黒い姿態が重厚な存在感をもって迫ってくるのに対し、闘牛士のはなれ技はいとも軽やかである。
《操り人形と遊ぶのは驢馬たちである》。この諺がこの作品にどの程度関係があるのかわからないが、難解で順番も不明な「妄」を初めて世に出した美術アカデミーは、当時のスペインの諺を作品に添えた。女たちが布を広げ、その上では男(人形?)たちがはね上げられ驢馬と男が横たわる。女たちの蔑むような笑い顔にゴヤの女性に対する辛辣な皮肉がこもっているようだ。右端に「Goya」のサインがある。
《恐れる者にとっては、影も恐怖である》との諺が付されている。漆黒の夜空にぬっと立つ、得体の知れない巨大な化け物と、おびえる兵士たちの群れ。不可解な“影”のようなものを盲目的に恐れる人間の愚かさが描かれる。兵士を描くのは、対仏独立戦争の忌まわしい記憶によるものであろう。
東方への憧れ ドラクロワの版画
ロマン主義を代表する画家ウジェーヌ・ドラクロワは、版画の分野でも多くの傑作を残しています。ここに展示された6枚の銅版画は、ドラクロワの生前は未発表だった作品で、親友フレデリック・ヴィヨが保管していたものを、ドラクロワの死後、版画集として出版したものです。当
時のヨーロッパでは、中東やアフリカなどの異国への憧憬から、東方趣味(オリエンタリスム)と呼ばれる東方趣味が流行していました。1832年、ドラクロワは外交使節団の随行員としてモロッコを訪れましたが、この旅はドラクロワの芸術にも転機をもたらしました。
モロッコ訪問の翌年に制作されたこれらの作品には、頭にターバンを巻いた人物など、随所に東方の風俗が散りばめられています。自由な線による描写や白と黒のコントラストを際立たせた明暗・立体表現など、版画における作者の優れた技量を見ることができます。
これらの銅版画は、画家の生前には未発表であったものである。ドラクロワの親しい友人で、美術史家で画家・彫版家であったフレデリック・ヴィヨ(1809-75)が原版を保存していたもので、ドラクロワの死後、1865年にこれらの6枚が1セットにまとめられて出版された。この版画集の表紙にもドラクロワの銅版画が刷り込まれている。ドラクロワはヴィヨからエッチングの手ほどきを受け、当初は二人の共同作業で版が制作されたことも多かったが、1832年以降は、ドラクロワが一人で彫版を手がけるようになった。
これらの銅版画は、画家の生前には未発表であったものである。ドラクロワの親しい友人で、美術史家で画家・彫版家であったフレデリック・ヴィヨ(1809─75)が原版を保存していたもので、ドラクロワの死後、1865年にこれらの6枚が1セットにまとめられて出版された。この版画集の表紙にもドラクロワの銅版画が刷り込まれている。ドラクロワはヴィヨからエッチングの手ほどきを受け、当初は二人の共同作業で版が制作されたことも多かったが、1832年以降は、ドラクロワが一人で彫版を手がけるようになった。
ドラクロワは、1832年前半の北アフリカ旅行から戻った翌年、エッチングの制作に再びとり組んだ。本作は《オランのアラブ人》とともに、その中で最も重要な作品である。ドラクロワはモロッコのタンジールに滞在したおり、ユダヤ女性たちの姿を詳細な水彩画に描き、それらが本作の源泉となっている(タイトルの「アルジェの」は誤称ということになる)。裕福な花嫁が召使いをともない、室内で椅子に掛けている。敷物においた彼女の裸足の形式張らない姿と、重たそうな衣装や威厳のある態度との対比が面白い。
これらの銅版画は、画家の生前には未発表であったものである。ドラクロワの親しい友人で、美術史家で画家・彫版家であったフレデリック・ヴィヨ(1809─75)が原版を保存していたもので、ドラクロワの死後、1865年にこれらの6枚が1セットにまとめられて出版された。この版画集の表紙にもドラクロワの銅版画が刷り込まれている。ドラクロワはヴィヨからエッチングの手ほどきを受け、当初は二人の共同作業で版が制作されたことも多かったが、1832年以降は、ドラクロワが一人で彫版を手がけるようになった。
これらの銅版画は、画家の生前には未発表であったものである。ドラクロワの親しい友人で、美術史家で画家・彫版家であったフレデリック・ヴィヨ(1809─75)が原版を保存していたもので、ドラクロワの死後、1865年にこれらの6枚が1セットにまとめられて出版された。この版画集の表紙にもドラクロワの銅版画が刷り込まれている。ドラクロワはヴィヨからエッチングの手ほどきを受け、当初は二人の共同作業で版が制作されたことも多かったが、1832年以降は、ドラクロワが一人で彫版を手がけるようになった。
「農民画家」 ミレーの版画
19世紀半ば、下火になりつつあった版画の復権に大きな役割を果たしたのは、ミレーやドービニーら、バルビゾン派の画家たちでした。1847年頃、ミレーは版画家として当時有名だったシャルル・ジャックと出会い、版画の制作を始めます。ミレーは「本当に感動したものを描くのに、わずかな表現で満足することはできない」と語り、一つの画題を、油彩、パステル、水彩、版画など、様々な技法を使って繰り返し表現しました。《種をまく人》や《落穂ひろい》など、よく知られた作品も版画化したように、彼は版画を油彩と同様に重要な表現方法と考えていました。版画では、線のみによる明暗の表現や、簡潔な構図など、ミレーの優れた素描力が発揮されていて、油彩とはまた違ったミレー芸術の魅力を発見することができます。
ミレーの室内を描いた油彩画は独特のほの暗さをもっているが、その暗さがコントラストを強くしてこの版画に再現されている。うなだれるように作業をする農婦はたくましく肉付けされ、単調な手仕事をこなしながらも強く生きる様子を伝えている。後年、ミレーはこの構図をもとに油絵を制作したが(1863年サロン出品)そこでの農婦は楽しげに作業に熱中しており、エッチングの農婦の疲れた表情と対照的で興味深い。
ミレーは、1847年頃、著名な版画家シャルル・ジャックとの出会いから版画を始める。ミレーは感動した題材を描くのに、油彩画だけで満足できずに、パステルやデッサン、そして版画など様々な技法で繰り返し試みている。この版画も1848年から1952年の間に同構図の油絵が描かれているが、デッサン、油絵、版画の三者を見比べると興味深いものがある。特にデッサンの肉太な輪郭線とエッチングのか細い針の跡との比較は、素材と技法に通じたミレーの熟練度の高さを示してくれるであろう。
ミレーの版画が絵画に先行している代表的な例である。ルーヴル美術館の油絵は1857年のサロンに出品されており、ほぼ1年前にはその完璧な構図がここに仕上がっていた。背景の細部は油絵とは若干異なり、エッチングの方が地平線の手前寄りに収穫風景を配置しているので、手前の3人との関係は比較的緊密であり、油絵が持つ3人の疎外感は弱められている。また中央の女はエッチングでは腕抜きをまだはめておらず、構図上のアクセントが一つ欠けたようで物足りなさを感じさせ、興味深い点である。
1855年から始まった「編物をする羊飼いの女」の総決算的な作品であり、その寸法からもGrande(大判)と呼ばれている。デッサンでは、編み物をする女性の手の表情とそれを見るまなざしが細かく見てとれるが、この版画の中では細部が陰影によってつぶされていて、全体を大きなマッスとして捉えようとしていた様子がうかがえる。また、近景に比べ遠景はより細い線で表されていて、デッサンよりも奥行きを感じさせる試みをしていたことがわかる。
1850年のサロン出品後、《種をまく人》は美術界に少なからぬインパクトを与えた。当時の最も重要な芸術誌『アルティスト』がその複製制作を申し出た事もその余波の一つである。その頃のミレーは版画について殆ど素人だったが、銅版画よりも素描をそのまま生かせるリトグラフを選んだ事は賢明であったといえるだろう。それにもかかわらずミレーは試し刷りに不満で、結局この作品は掲載されずに終わった。
『エクリプス』紙 全400号揃
「マネ、オリジナル・エッチング集」より
アカデミーの古い慣習を打ち破り、印象派の誕生に重要な役割を果たしたエドゥアール・マネは、近代絵画の父とも称されます。そして彼はまた版画の分野でも、多くの作品を残したことでも知られています。ここに展示されている版画は、出版業者兼画商であったアルフレッド・シュトレーリンにより100部限定で版行された版画集で、タイトルページ中央にはマネの友人アンリ・ファンタン=ラトゥールによる《ドラクロワ礼讃》(オルセー美術館蔵)に描かれたマネの肖像が掲げられています。
マネは1862年の「腐蝕銅版画協会」創立にも参加し、初期の頃からエッチングを中心に自身の作品に関する版画を制作してきました。その動機は浮世絵やゴヤの影響、自身の作品イメージの喧伝など様々考えられますが、制約を設けず、あらゆる手段を用いて作品を残そうとした彼自身の近代的理念に基づいていたとも言えるかもしれません。
本シリーズは出版業者兼画商であったアルフレッド・シュトレーリンにより100部限定で版行されたもので、タイトルページ中央にはマネの友人のアンリ・ファンタン=ラトゥールによる《ドラクロワ礼讃》(オルセー美術館蔵)に描かれたマネの肖像が掲げられている。マネは1862年の「腐蝕銅版画協会」創立にも参加し、初期の頃からエッチングを中心に自身の作品に関する版画を制作してきた。その動機は浮世絵やスペイン画家ゴヤの影響、自身の作品イメージの喧伝など様々考えられるが、制約を設けず、あらゆる手段を用いて作品を残そうとした彼自身の近代的理念に基づいていたとも言えるかもしれない。本シリーズの序文にはマネと深い交友のあった批評家テオドール・デュレによる下記のような文章が掲載されている。序文:マネは、初期の1860年から1866年にかけて、エッチング師として多くの作品を残した。この時代に彼はスペイン人をモデルにすることを好んでいたが、実際にスペインに旅行するのは1865年になってからである。したがって、スペインを題材にした作品は、ピレネー山脈のこちら側、フランス側で制作されたことになる。モデルは、数年にわたってパリに興行にやってきた一座のダンサーや歌手であった。ここに集めた30点の作品は、100部完全限定版である。原版は破壊されている。作品は出来る限りの範囲で年代順に整理されている。マネの版画作品の中で最古とされている《シレンティウム(沈黙)》を最初の一群の中に置き、次に1961年作の《カンプルービ》、そして最後の1882年作の《ジャンヌ》までを網羅している。『19世紀の版画師たち』の著者ベラルディ氏は、マネのエッチングに関して当時存在していたものの中で最も完全なカタログを、同書の中で提示している。以下のカタログでは、それぞれの作品の番号に、ベラルディ氏のカタログ番号を「B. xx」として掲載した。 テオドール・デュレ
本作は1861年、初めてサロンに入選した《スペインの歌手》(メトロポリタン美術館蔵)に由来している。当時の批評家テオフィール・ゴーチェは同作を称賛し、「ギタレロ」と名付けた。本作は原作に比べ左右が反転しているものの、細かなタッチで男性の顔や衣装をはじめ画面全体に丁寧に陰影をつけ、原作の雰囲気を忠実に再現することに成功している。マネは1850年から6年間、トマ・クチュールの画塾へ通い、59年のサロンに初めて《アブサンを飲む男》(ニイ・カールスベルグ美術館蔵)を送ったが、あえなく落選した。ここでは修行時代、ディエゴ・ベラスケスらのスペイン画家から受けた影響を如実に感じさせる。
本作は1860年から61年にかけ制作された原作(個人蔵)を左右を反転させて版刻されたもの。少年の喜ぶ表情など細かなところまで正確に描写している。マネは17歳の頃、家にピアノを教えにきていたシュザンヌ・レーンホフと1863年10月、結婚した。彼女の息子レオン・レーンホフ(戸籍上は弟とされていた)の父はマネと推測される。レオンは《剣を持つ少年》(1861年/メトロポリタン美術館蔵)、《シャボン玉を吹く少年》(1867年/グルベンキアン美術館蔵)、《昼食(アトリエにて)》(1868年/ノイエ・ピナコテーク蔵)などでもモデルを務めたが、その特徴的な顔立ちから本作も同じくレオンがモデルであると思われる。
本作は1862年の夏から秋にかけて、パリのイポドローム劇場で公演を行ったマドリード王立劇場舞踊団の花形であったローラをモデルにした原作(オルセー美術館蔵)を版刻したもの。原作は舞台袖に立つモデルのドレスの黒と赤のコントラストが鮮やかで異国情緒を醸している。この点について、本作の下部には詩人であり批評家でもあったシャルル・ボードレールによる「ここかしこ美し女の数多はあれば、友よ、焦がるる想いもまた定めなくここかしこ されどローラ・ド・ヴァランスのうちに耀うは バラ色のはたまた黒き宝玉の心おどろかす妖しのちから」との散文詩が付されている。
本作は1862年に制作されたマネの初期の大作《老音楽師》(ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)の中に描かれた少女の姿を反転させ、上半身の部分を版刻している。原作ではヴァイオリンを手にした老人と貧しい子どもたち、2人の紳士が描かれ、素朴な群像に仕上げている。この作品でマネは、他の作品に登場する人物を組み合わせ、再構成する試みをしており、例えば右側のシルクハットを被った男性は自身の描いた《アプサンを飲む男》(ニイ・カールスベルグ美術館蔵)で描いた男性を採用している。少女は当時、サロンで活躍していたアンリ・ギョーム・シュレシンジャーの《さらわれた子ども》(所蔵先不明)が由来していると指摘されている。
本作は1864年にマネがサロンに出品した《闘牛士のエピソード》(下部にあたる《死せる闘牛士》はワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)の一部を版刻したものである。一部というのは、マネはこの作品をサロン閉幕後、上下に裁断してしまい、その下半分をモティーフとしているからである。元々の作品では上部に小さく描かれた牛と観客が配されていたという(上部のうちの一部は《闘牛》と題してワシントンのフリック・コレクションに収蔵されている)。本作では倒れた闘牛士の姿態や肩から床に広がる血だまりなど、原作に勝るとも劣らない描写を適えるとともに闘牛士の死という厳粛な題材を巧みに描出している。
1838年から48年にかけて、パリでは国王ルイ・フィリップの個人コレクションを展示した「スペイン絵画館」が市民に開放され、身近にスペイン絵画と親しむことができた。こうした中でマネのスペイン画家への憧れも育まれていったと考えられる。本作は、マネがルーヴル美術館所蔵の《13人の会合》を模写した油彩画に基づいている。同作は当初、スペインの巨匠ベラスケスの作品とされていた。本作は丹念に仕上げられており、13人の騎士の各々の着こなしやポーズが特徴的で、その一部が後のマネの作品に生かされることもあった。
本シリーズの《ローラ・ド・ヴァランス》(オルセー美術館蔵)と同様、1862年にパリで出張公演し、喝采を受けたマドリード王立劇場舞踊団にまつわる作品。本作は舞踊団の座長を務めていたマリアーノ・カンプルービをモデルとした油彩画作品(個人蔵)を版刻したもの。作品の下部にはマネによる「don Mariano Camprubi primer bailarin del teatro royal de Madrid(マドリード王立劇場舞踊団の座長 マリアーノ・カンプルービ」との言葉が書き加えられている。マネは同時期に取材した踊り子たちの群像の水彩やエッチングも残している。
本作は、マネが画家アルベール・ド・バルロワと共同で初めて構えたアトリエで1858年から59年にかけて助手をしていたアレクサンドルという少年を描いた水彩画に由来している。アレクサンドルはマネの初期の油彩画《サクランボを持つ少年》(グルベンキアン美術館蔵)のモデルにもなったが、60年に彼はマネのアトリエで自らの命を絶ってしまう。詩人であり批評家であったシャルル・ボードレールはこの衝撃的な出来事を散文詩「紐」に託してマネに送った。細かなタッチをきかせ、丁寧に仕上げられた本作は、友人への返辞、彼への追悼の想いも込めて手がけられたのかもしれない。
本作のモデルはサロンで活躍した画家ジョゼフ・ガルで、彼はギュイヨ街のマネのアトリエと同じ建物の中にアトリエを構えていた。彼はマネと親しく交友していたのであろう、マネが1861年に制作した《読書する人》(セントルイス美術館蔵)ではモデルを務めたとされ、同じく彼が持ち込んだ椅子も描き込まれている。また本作には同様の油彩画の存在が確認されており、同作は1866年にアルマ橋近くで開催されたマネの個展へ出品されている。マネは本作を仕上げた後に、第2ステート(ステートは版画における段階の意)としてNo.15を手がけたが、仕上がりに納得がいかず、それ以上は手を入れなかったという。
マネにとって海景画は、主要画題の一つともとなっている。本作は、1864年に描かれた《ブーローニュ沖に停泊するキアサージ号》(メトロポリタン美術館蔵)と68年の《蒸気船、イルカのいる海景》(フィラデルフィア美術館蔵)の双方の油彩画のイメージを組み合わせて構想されたと考えられる。その証拠に、左側の船は前者に描かれた船を反転させたシルエットをしており、中央下に顔を出したイルカは、後者のイルカのイメージを重ねていると見られる。海面の反射による微妙な色の階調も、タッチの密度に変化をつけ、見事に表現しており、マネの光に対する繊細な意識を垣間見ることができる。
本作は、マネの代表作《オランピア》(オルセー美術館蔵)を版刻したもので、No.23も同様である。ベッドに横たわる娼婦に花を届ける黒人の従者と黒猫の描かれたこの絵画は1865年のサロンに入選したものの、「ヤクザな小娘」「可愛げのない体」など、これまでに味わったことのない批難を浴びることとなった。あまりの批判の激しさに危険の感じた運営側は2人の守衛をつけたほどであった。No.22はNo.23に比べ、大きさがあるもの、タッチの線が強く原作のイメージと少し距離がある。No.23は小ぶりだが、娼婦の体とベッド、背景の色との階調が繊細に処理され、原作の雰囲気を伝える要素が多いといえる。
ケルムスコット・プレス版『チョーサー作品集』
20世紀 オリジナル版画の登場
18世紀まで、版画は主要な情報伝達の手段として広く社会で利用されてきましたが、19世紀に入り、版画より簡易な複製技術としての写真が実用化されると、版画は衰退の危機を迎えました。時代遅れの技術となった版画は、情報の複製という役割から変化する必要に迫られます。その結果、版画家や画商は、刷りの枚数を制限し、限定番号を入れて希少性を高め、画家が必ず原板を制作することによって、美術作品としてのオリジナル版画を生み出しました。ピカソやブラックをはじめとした画家たちは、版画の美術表現の可能性にいち早く気づき、様々な実験を通して、20世紀美術の新たな表現手段として版画を駆使し、優れた作品を次々と生み出しました。
この版画のもととなるデッサンは1881年に描かれ、同じ年に同構図の油彩画《水浴する女》(スターリング&フランシーヌ・クラーク美術研究所蔵)が描かれた。翌1882年にも同じ構図の作品(個人蔵)が描かれていて、ルノワールお気に入りのモデルであったことがわかる。それもそのはずで、彼女は1885年に妻となるアリーヌ・シャリゴであった。甘美な表情、長い髪、そしてふくよかな肢体をもつ婦人の表現は、いかにもルノワール的である。
モノトーンの階調のみによる表現の豊かさ。柔らかい羽毛の感触を導き出す筆触の暖かさ。リト・インクで手に入れることのできる淡彩風の美しい効果を最大に発揮した傑作である。この作品はパリで開催された国際平和会議のポスターの原画として制作したもので、50部が刷られた。その写真複製がポスターとなり、ピカソの鳩は平和の象徴として世界中を飛んだのである。アトリエでも鳩を飼っていた彼は、愛娘にもパロマ(鳩)という名前をつけた。
本作の主題は、ホメロスによって謳われたトロイア戦争の物語の一場面。トロイアの勇将ヘクトルは、愛する妻のアンドロマケに別れを告げ、戦場に赴く。ここでは二人はキリコが偏愛を寄せた無機的なマネキンに変えられ、背景には冷たい構築物が特異な遠近法によって描かれる。このような彼の形而上絵画に現れる街路の映像に霊感を与えたのは、トリノのア─ケ─ド街だったという。イタリアの街かどの憂鬱を描いたキリコの作品は、20世紀が若かった時代にシュルレアリスムの風を受けて生まれた特異な産物であった。































































